知覚と錯覚

今回の日本人人質事件。最初に二人の人質の映像が出たときに、メディアでは直後からその映像が合成かどうかが問われたりして、どこか違和感を覚えずにはいなかった。「信憑性」がどこかではき違えられているような感じというか……。二人が拘束されたという事象的な信憑性と、映像がその確たる証拠をなしているのかどうかという信憑性は、本来は当然ながら別次元として区別されるわけだけれど、事件の報道の中では、どこかそれらが微妙に曖昧に交錯した印象を与えた(気がする)。あれは何だったのか。その後、最悪の結果に終わった事件だが(これもまた「最悪の結果に終わったとされる」と括弧付きにしたい気分にさせられる。相手と没交渉だった政府が、遺体確認すらなされないことを明言したからだが)、そこでの没交渉の姿勢もまた、テロリストとは交渉しないとか、テロには屈しないとかの文言の意味が、本来の戦略的意味からどこか微妙にずれている印象を与えているように思われる。全体としてこの事件においては、テロリスト側から発せられるメッセージも、あるいは政府側が発し相手側が受け取ったであろうメッセージも、どこか始終曖昧で、意味が不明もしくはズレた形で相互に伝わっている(ように見える)。つまりそれは、メッセージの受信や知覚、認識(翻ってその発信についても)の問題を大きく突きつけたということだ。広報戦略とかメディアだけの問題ではない。また個別事例だけで考えればよい問題でもないように思える。きな臭い空気がいや増すなか、知覚や認識を取り巻く環境にも霧(……なんて生やさしいものではないかもしれない)が立ちこめ始めているようで、何やら落ち着かない。


さしあたり、情勢的なものからは離脱した上で、そのあたりの問題を捉え直したいところだ。そもそも単純な知覚の信憑性からして問題は根深い。以前のエントリーで取り上げたダラス・デネリーの論文では、ペトルス・アウレオリの議論(直観的認識を対象の有無ではなく、体験ベースで定義する)を敷衍すると、あらゆるものが疑わしくなり、社会生活そのものが成り立たなくなるとして、オートレクールのニコラは、「存在しているように見えるものは存在するのだ」という肯定的テーゼをあえて掲げてみせた(もちろん人間の誤謬性から、それなりの条件つきではあるけれど)のだった。けれどもそれで問題が片付くわけではもちろんない。

知覚の哲学入門信憑性をめぐるアポリアは現代でもなお生きている。そんなことを改めて感じさせるのが、ウィリアム・フィッシュ『知覚の哲学入門』(山田圭一監訳、勁草書房)だ。同書は分析哲学が突き進んだ認識論的なターンについての教科書で、センス・データ説(これなどはいわば中世のスペキエス(可感的形象)論の焼き直しのようでもあり、また上のアウレオリの体験ベースの認識論の継承のようでもある)を中心に、それに補完・反駁・発展を加える内在論の諸説を整理し、コンパクトに紹介している。副詞説(知覚対象の諸性質を、知覚の様態として捉え直す)、信念獲得説、志向説、選言説(素朴実在論)などなど。一枚岩にはほど遠い、様々な説が出てくる背景には、やはり知覚と錯覚の区別という難しい問題がでんと横たわっているからか。どの説もなんらかの側面では説明原理として有効そうに見えて、別の側面では解消できない問題が浮上してくる。かくして、読み進むほどにどこか迷路に置き去りにされたかのような感覚を覚えたりもする。現状の錯綜具合は、逆に問題のリアルな難しさを表していることうことか。ちなみに上のオートレクールのニコラの論は、「人は外的世界の知識を持ち得ない」というテーゼ(アウレオリなどが行き着く先の)に反対しているという意味で、素朴実在論を擁護する選言説に通じた議論といえそうだ。