クザーヌスの一貫性?

26336401_1クルト・フラッシュ『ニコラウス・クザーヌスとその時代』(矢内義顕訳、知泉書館)を読む。クザーヌスの生涯を、刊行された著書の中心思想を軸に、時代状況その他にも丹念に目配せしながら描き出した良書。小著ながらとても読ませるものになっている。思想面ではそれまでにない否定神学を突き詰めていくクザーヌスだけれど、一方でその職務や政治的なスタンスではきわめて実利的な面が浮かび上がる。リアルポリティクスに関してはきわめて柔軟に対応し、公会議主義から教皇派へと立場が移っていったりもするクザーヌス。一見二面性であるかのような複雑な立ち位置だが、両サイドを繋ぐ、あるいは貫く、なんらかの水脈を同書は示唆するかのようだ。前期クザーヌスの「合致」の考え方は、やがて後期の実在の一性へと深化していくというが、反面、現実の教会政治は失敗続きとなる。けれどもそれが、むしろクザーヌスの真理の獲得への確信を深めていくのだという。このあたり、とても刺激的な問題提起として読むこともできそうに思える(もちろんそうした研究もなされているだろうから、少し探ってみたい)。

これにも関連するけれど、前期クザーヌスの『知ある無知』に対するジョン・ヴェンクの批判に、クザーヌスが反論として著した『無知の教えの弁護』(Apologia Doctae Ignorantiae)に、思想のみならず実践的な「合致」の思想を見るという小論が、さっそく目に飛び込んできた。ジャン=ミシェル・クーネ「否定神学のための弁護と和解の意味」(Jean-Michel Counet, The Meaning of Apology and Reconciliation for an Apophatic Theology, Conflict and Reconciliaton: Perspectives on Nicholas of Cusa, ed. Inigo Bocken, Brill, 2004)。肯定神学にもとづく攻撃的なヴェンクの批判を、クザーヌスは自説の真意を(読者に)理解してもらうために有益だと受け止め、改めてそれが言葉のレベルではなく、純粋な知性でのレベルの教説なのだということを訴えているのだという。これもまた一つの合致思想。上のフラッシュによれば、クザーヌスは中期の『眼鏡』において、「合致は万物の中にある」と説いているという。