「心理学」と「存在論」−−その名称的来歴

マルコ・ラマンナ「心理学の初期の来歴について」(Marco Lamanna, On the Early History of Psychology, Revista Filosófica de Coimbra, no. 38, 2010)(PDFはこちら)という論文を読んだ。中世まで霊魂論として受け継がれてきた魂に関する学知が、「心理学」(psychology)という名称に本格的に置き換わったのは16世紀末から17世紀初めということだが、同論考はその成立と普及について考察したもの。合わせてほぼ同時期に登場する「存在論」(ontology)の来歴にも触れている。実はこの「心理学」、現在確認されている最も早い例は、16世紀初めに活躍したクロアチアの人文主義者、マルコ・マルリッチの著書(Psichologia de ratione animae humanae: 1520年頃)なのだという。ただ、それが広く使われ出すのは16世紀末になってからで、中欧の宗教改革派の学問世界においてのことなのだとか。用語の定着までには紆余曲折もあったらしく(?)、scientia animasticaなんて語も使われていた(後述のジェヌア)。いずれにしてもそこには、宗教改革派によるアリストテレスの学問の復興と、従来のスコラ学の色合いを薄めるための新語法の導入という動きが文脈としてあり、同時にその学知を自然学と形而上学、あるいは第三の中間的学知のいずれに位置づけるかという議論も絡んで複雑になっていたらしい。存在論も同様で、ontosophiaなんて語もあったらしい。

魂をめぐる学知の位置づけについて、同論考は、(1)霊魂論を自然学と形而上学にまたがるものと見る、(2)自然学、形而上学のいずれかに属する、(3)第三の学知をなす、という立場で分け、(1)の立場にはアヴェロエスやトマス・アクィナスがいて、(2)のうち自然学に属すると見る者としてアフロディシアスのアレクサンドロスほか、はるか後のポンポナッツィなど、形而上学に属するとする人々にはアウグスティヌスをはじめ、新プラトン主義の各論者、オーベルニュのギヨーム、パリのギヨーム(13世紀)などがいた、とされている。(3)の立場にはテミスティオス、偽シンプリキウス(プリスキアヌス)、後にアウグスティーノ・ニフォ、マルカントニオ・ジェヌア(マルコ・アントニオ・パッセリ)などが連なる。論考の後半は、近代初期の霊魂論と「心理学」の語の広がりについてのまとめになっている。ニフォ、ジェヌア、さらにザラベッラなどのパドヴァのアリストテレス主義系の著作は、16世紀を通じてドイツの大学や図書館へと流れ込んで人気を博し、ルター派のハーヴェンロイター(1590年に「心理学」の語を用いている)、カルヴァン派のクレメンス・ティンプラーなどを輩出する。ルター派にはメランヒトンからの霊魂論再評価、カルヴァン派にはピエール・ド・ラ・ラメ(ペトルス・ラムス)からの学問の改革運動などの流れがあり、そのラメの伝記作家でもあった論理学者ヨハネス・トマス・フライクに「心理学」の使用例があって(1574年)、どうやらこれがドイツ哲学の世界で「心理学」が使われた嚆矢ではないかとのこと(従来の説よりも1年早い文献を、同論考の著者は新たに発見したのだとか)。フライクは心理学を上の(2)、つまり自然学に属すると見ているという。さらに1590年に「心理学」を冠したアンソロジーを刊行したゴクレニウスなども同じ立場で、こちらは一派をなし、その用語の普及に大きく貢献していく(ルター派にまで及んでいくようだ)。すると今度は、心理学を形而上学に属すると見る見方が、ルター派、カルヴァン派双方から提案されたりするなど、その学問的位置づけは揺らぎ続け、はるか後世の19世紀末までいたるのだという。

一方の「存在論」はというと、1606年にカルヴァン派のヤコプ・ロアハルト(ロルハルドゥス)が形而上学の同義語として作り上げ、これまたゴクレニウスが意味を狭めつつ用いたことで(1613年)、カルヴァン派内部で広まったとされる。こちらはそうした位置づけ上の揺れも少なく、「心理学」とは対照的だったようだ。

ゴクレニウスの肖像画。かつては「心理学」の用語の考案者とされたが、今では普及者と見なされているもよう
ゴクレニウスの肖像画。かつては「心理学」の用語の考案者とされたが、今では普及者と見なされているもよう