認知症と「虚構世界」?

現代思想 2015年3月号 特集=認知症新時代『現代思想』誌が特集で「認知症新時代」ということだったので、今月も購入(→現代思想 2015年3月号 特集=認知症新時代)。うちも要介護者(老親)を抱えていることもあって、認知症の諸問題をめぐる議論には少なからず関心がある。なるほど、同特集を構成する諸論考は、大きくは二つの共通するトーンでまとめられている感じだ。まず、将来的に5人に1人とも言われるなら、認知症は疾患というよりも自然な老化現象と捉えられる可能性があるのではないかということ。次に、認知症患者とされる人々も、かつて考えられていたように「何もできなくなる」というものではなく、なにがしかの支援されあれば諸活動が可能だということ(もちろん不可能な部分もあるわけだが)。このどちらも、認知症を通常態との連続した相で見るというスタンスだ。そうしたスタンスで見るならば、認知症患者とともに歩む社会というグランドデザインを考えることも可能になってくる、というわけで、同特集の主眼はそうした社会学的な考察への接合ということにあるようだ。

連続の相で見るという立場は、認知症研究では小澤勲氏という精神科医が嚆矢なのだそうで、その研究の概要が天田城介「認知症新時代における排除と包摂」という論考で紹介されている。それによると、そこでの中心的な考え方は中核症状と周辺症状とのを区別にあるのだとか。つまり現象面での共通部分と付帯的要素との区分だ。たとえば(うちの親の場合にもあったが)「もの盗られ妄想」などは後者の周辺症状に分類されるといい、そうした周辺症状の発生メカニズムとして、状況と自己とのギャップと、そうしたギャップに対する修正努力(コーピング)とが挙げられている。もちろんこれは抽象的で大まかな括りでしかなく、実際には個別のケースによって発生メカニズムも様々だろうと思うけれど、介護する側にとってのそうした周辺症状への可能な対応としては、ギャップとコーピングの一種の最適化を図る支援が提唱されているようだ。つまり、ズレを身の丈にあったものにし、責任の所在を追求されなくてすむような「虚構の世界」を創出する、というのだ。これもまたある種の抽象レベルでの話で、具体的なことは触れられていないので、この論考だけではその意味するところを厳密に掌握しきれないけれど、家庭だけで閉じない、開かれた場所への誘い出しが必要だとも記されていることなどから察するに、つまりは現行の通所介護での施設が体現する、ある種の理想的空間(確かにそこでは粗相をしようと咎められることはないし、一方である種の共同生活、社会生活的な体験を重ねることができる)を支える思想であるらしい。けれども同論考が末尾で示しているように、そうした連続の相で見る見方もまたある種の大まかな括りである以上、そこからは個々の多様性をなす部分が取りこぼされていくという問題もあるようだ。そもそも、施設に通う当事者たちが、その施設の「虚構世界」をどう感じて過ごしているのかなどは、コミュニケーションが十全に成立しがたい認知症の場合、正確に計り知ることは難しい。かくして同論考が指摘するように、そのようなケアの根底を支える思想もまた、新たな「排除と包摂のシステム」を作動させることになってしまう、と……。

というか、同特集の他の論文でも称揚されているそうした連続相での見方は、いってみればどこか牧歌的なスタンスであるかのようにも見える。「安心して呆けられる社会」という理想像は実現にはほど遠いし、目下の政治状況ではとうてい望むべくもない。介護の現実の現場にはある意味凄絶な場面もあり(詳しく書くのは生々しいので控えるが、たとえば本人の病態失認の問題は、上のコミュニケーション不全も絡んで、介護にあたる側に多くの負担を強いることになる)、どうしても断絶の相のほうがはるかに目に付くようにも思える(もちろん、そういう見方だけでは、病気としての認知症観を助長し、認知症患者を薬漬けや社会的隔離へと追い込んでいきかねない、というのもわかるのだが)。とはいえ、そんな中、ふと上の「虚構世界」という発想に、少しの光明が見られるような気もしないでもない。なんらかの組み替えがなされればさらに有用なタームになるのではないか、と。患者本人が抱く妄想とは別様の、それでいてより個々の当事者に適った「虚構世界」を、なんらかの誘導(?)でもって「インストール」することはできないものかしら、なんてことを思ってみたりするのだが、さて……?