一と多:カルダーノの場合

天才カルダーノの肖像: ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈 (bibliotheca hermetica叢書)榎本恵美子『天才カルダーノの肖像: ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈 (bibliotheca hermetica叢書)』(勁草書房、2013)から、カルダーノの『一について』の論考(第七章)と邦訳(第八章)を見てみた。この『一について』、カルダーノの「一者」論かと思いきや、形而上学的な世界に一足飛びに行くのではなく、現象世界における「多と一との切り結び」をめぐって自然学と形而上学の境界線を行きつ戻りつする、いわば構造記述の書という感じだ。同書の論考によれば、カルダーノの場合は「多」は「はじめから前提」されていて、一に関しても「多を越える一」ではなく、「多の集まりを統一する原理としての一を問題に」しているのだ、という(p.199)。多はプロティノス以来の流出論において「実在性において劣るものとして貶められていた」が、それが「秩序の概念の媒介によって引き上げられ、その価値が高められている」(p.200)のだ、と。つまり基本的な図式としては、一が統合の原理で、それが秩序による媒介通じて多を実際に統合するということ。なるほど、14世紀以来の、個物への重心のシフトを経るなら、一と多の議論もまた変貌を遂げざるをえないということなのだろう。一者(神)は世界観としての最も奥まった後景へと退き、現象としての多こそが前景を占め、それを統合する原理としての一が背後に控える、というわけだ。同著者は論考の末尾で、このような構図を「時代精神の一般的な傾向」とまとめているけれど、ほかの著者などにも類似した議論があるのかどうかがとても気になるところだ。

『一について』は邦訳もとても興味深い。たとえば身体における霊魂は原理としての一であるとする第二部の一節。そこでは、霊魂は原理的な一である以上、場所にも時間にも存せず、どこにも存在しないとされている。延長をもたず、不可分であり(世界霊魂と同様に)永遠で不死である、というのだ。なるほど、それが「ある」のは非在の場……か。そう規定される霊魂は、するともはや可滅的なもののまとわりとは無縁であるかのように見える。巻末の解説(坂本邦暢「カルダーノ研究の最前線」)では、ほぼ同時代のスカリゲルがカルダーノの「霊魂の物質主義的な解釈」を批判しているといった話が紹介されているが、邦訳を読んだ後では、そうした批判は改めてどこか意外でもある。『一について』では、熱であったり生命(生命現象?)であったりするものは、いわば原理を媒介する秩序の位置づけのようで、ここだけ見るなら、カルダーノが物質主義的な霊魂論(可滅論?)に与していたようにはまず思えない。うーん、このずれは一体どういうことなのだろう、と頭を抱えそうになる。同解説は、カルダーノを「時代精神の一般的傾向」と見なすスタンスをスカリゲルの見方に重ねて論じているのだけれど、同時に様々な検証課題をも示唆していて、それも参考になる。