空白と律動−−マルディネの知覚論?

メルマガのほうで見ている加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』(創文社、1998)によれば、ヘンリクスは人間の視覚による知覚プロセスを、まずは可感的対象を無限定的なものとして捉え、次いでそれを限定的なものとして捉える、というふうに見なしている。で、知解もまた同じような方向性(無限定的→限定的)をもつプロセスだと考えていて、無限的的なものの理解が限定的なものの理解に先立つとしている。無限定的なものはさらに下位区分され、まずは非・限定的(限定不可能)なもの(つまりは神)、次いで未限定的なもの(つまりは個々に限定されない普遍的なもの)が捉えられる、としている。こうして、ヘンリクスの場合は神の認識がアプリオリなものとして人間の知性に立ち現れるという話になるのだけれど、この「無限定的なものから限定的なものへ」というプロセスは、もっと現代的な議論、たとえば現象学的な考察にも類似物を見出すことができるのかしら、ということを個人的に考えていた。で、ちょうど読んでいるアンリ・マルディネの論集『芸術と実存』(Henri Maldiney, Art et existence, Klincksieck, 1985-2003)の、空白(大文字のVide)をめぐる諸論考に、まさにそうしたプロセスの記述を見出すことができるように思われたので簡単にメモしておく。ちなみにマルディネ(1912 – 2013)は戦後にガン(ヘント)の大学で教鞭を執っていたりして、名前も含めてヘンリクスとなにやら因縁めいている……なんてね(笑)。

Art et existence同書所収の「芸術における空白の効力」という一文は、イスタンブールの聖ソフィア大聖堂(現アヤソフィア博物館)に始めて足を踏み入れたときの、空虚に晒されて感じる「眩暈」から始まる。それは次に「リズム(律動)」に取って代わられるという。この眩暈からリズムへの移行を媒介するものとして、空白(大文字の)があるとされる。「足元を掬われた」感覚を抱く訪問者は、逆説的にドームの天井面に支えを、あるいは安らぎを求めようとする。囲われた限定空間を求めるというわけなのだが、天井面(穹隅)はそれを許さず、そこには視線を宙吊りにするような空白があって、下から上へと滲出するかのような光に満たされるのみ……。これなどは、まさに無限的のものが限定されつつまだそのプロセスの途上にあるような、微細な視覚体験の記述として読める。上の「リズム」概念は今一つよくわからないのだけれど、同文章の直前に置かれた「中国絵画における空白と無の意味」という別の論考では、空白と充溢は朱子学的な陰陽、あるいは道教の道の概念と重ねられて、それら対立概念の相互浸透による変化を意味するとされているようだ。空虚とその限定への揺らぎ、その微細な律動こそが、なんらかの秩序をもたらす根源であるというわけ……かな。再び上の論考「芸術における空白の効力」に戻ると、この律動概念は、同書の表紙を飾っているゴヤの≪ラ・ソラナ侯爵夫人≫の分析にも適用され、明と暗の対立が織りなす律動が像の発現とゆらぎをもたらし、ひとたびそれが安定化すると、その成立過程をなしていた律動そのものは排除されてしまうのだという。このあたりもまた、無限定から限定への移行の狭間を思わせる記述がこれでもかというくらいに繰り返される。視覚において、「色の像」と「形状」とが無限的のものを順に狭めていくというヘンリクスの議論に重ね合わせられそうだ。