ポインソットの記号論

これも知らなかったのだけれど、記号論の嚆矢として17世紀のポルトガル出身のドミニコ会士ジョン(ジョアンノ)・ポインソット(別名:聖トマスのジョン)という人物がいるのだそうで、1632年に『記号論(Tractatus de Signis)』という書を著している。デカルトとほぼ同時代ということもあって、両者が対照されるような研究もあり、いちおうポインソットは実在論側に位置づけられているのだけれど(新トマス主義の枠組みで)、実はその位置づけは多少とも揺らぎうるのではないか、という主旨の論考を読んでみた。マルク・シャンパーニュ「性質の共有による現実との融合をめぐる、ポインソットとパースの議論」(Marc Champagne, Poinsot versus Peirce on Merging with Reality by Sharing a Quality, to appear in a special issue of Versus: Quaderni di studi semiotici)というもの。チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)の記号分類(イコン、インデックス、シンボル)のうち、イコン(対象との類似性にもとづき、その対象を示す記号を言う)に相当するものについて、ポインソットとパースの立場の違いを取り上げている(一見なかなか剛胆な比較だが)。イコンには、それが示す対象との類似性がなくてはならないわけだけれど、それがあまりに少なければ記号になり得ないし、逆にあまりに類似しすぎていれば(対象と完全に一致するような場合)、それもまた記号ではなくなってしまう。このことは心的なイメージ(感覚的スペキエス)と外部世界にも適用されうる。で、この上限についてポインソットは、対象と記号との類似が完全に近いほど、表象の効果は大きくなるものの、両者が完全に同一化することはないとして、最低限の相違が必要だとしている。心的なイメージと外部世界の関係でいえば、両者は完全には一致しないということになる。その意味で、ポインソットにおいては実在論は完全には成立しないのではないか、というわけだ。これがパースともなると、対象との同一化は記号原理を無効にしてしまうとしつつも、完全な融合(自立的に存在するという意味で、第一性と称されている)の余地を温存しているという。記号と対象から、それらが共有する性質だけを独立した関係性として取り出すことができるという議論だが、それこそがまさしく最低限の論理記号学的近接性をなすというのだ。

パースの議論の細かい話も興味深いけれど、個人的にはやはり、ここで登場しているポインソットの記号論の全体像を知りたいところだ。幸い、その対訳テキストがオンラインで出ている。しばらくこれを読んでみようかと思っているが、実際これはなかなか面白そう。