美術史家のギロチン考

La guillotine et l'imaginaire de la Terreurまたまたダニエル・アラスの著作から、『ギロチンと恐怖の想像領域』(Daniel Arasse, La guillotine et l’imaginaire de la Terreur, Flammarion, 1987-2010)を読んでいるところ。まだほぼ前半。タイトルの通り、これはギロチンにまつわる表象史の試み。罪人の処刑方法(斬首や八つ裂きなど)が残忍だとされた18世紀に、もっとスピーディに苦痛もなく処刑ができる方法として考案されたのがギロチンで、提唱者のギヨタンはその「人道的」な面を強調していた。装置の原型はもっと古いようで、15世紀から16世紀のイタリアにはその古形があったというし、12〜13世紀のナポリほかに同じような装置があったとも言われる。けれどもやはり面白いのは、当初唱えられた人道性に反して、ギロチンが恐怖の対象となっていったその有様だ。処刑のあまりの迅速さや、斬首後に首がまだ動いているという光景、さらにそこから類推される、受刑者が進行中のみずからの死を認識できているのではないか、身体というのはやはり機械論的なものにすぎないのではないか、といった発想が、その装置のイメージを一挙に貶めていく。一方では、医学的な身体での機械論が政治的身体へと接合されて、頭部としての王の不要論へと繋がっていき、やがては王の斬首を準備することにもなる……。

いずれにせよ、称揚されるものに必ず付随する負の側面が予想を超えて拡大していく様を示す実例として、ギロチンはとても興味深い対象なのだなということがよくわかる。それにしてもその古形というのが気になってくる……(笑)。後半はまだちらっと見てみただけだけれど、処刑台が新たな神殿・新たな宗教のようになっていく様や、文字通りの舞台装置としての公開処刑、さらには斬首のポートレートの話など、装置の周辺へと広がっていく想像領域がそれぞれ取り上げてられているようだ。