中世の弁神論的限界?

「キリスト教の神は無限の愛であるとされるのに、一方では地獄において劫罰を科す。これって矛盾じゃないの?」。こういう疑問、キリスト教に触れれば誰でも一度くらいは思うんじゃないだろうか。あるいは、人間の罪に対して罰があまりに重すぎることにならないか、とか。でも、するとそこで、神の無限の思惟は人間には到底推測できないのだとの原則でもって、なにやら煙に巻かれてしまったりもする。それでは神秘主義というか、ある種の思考停止状態でしかないように思えるのだけれど、そのあたりに甘んじず、矛盾なら矛盾としてちゃんと検証しようという論考があってもいい。というか、あった(笑)。ケリー・ジェイムズ・クラーク「神は偉大、神は善:中世の神的な善の概念と、地獄の問題」(Kelly James Clark, God is Great, God is Good: Medieval Conceptions of Divine Goodness and the Problem of Hell, Religious Studies 37, 2001)(PDFはこちら)。いちおう中世の議論が取り上げられているのだけれど、具体的にはアウグスティヌスとトマス・アクィナスのみ。このあたりがちょっと寂しいところではある。でも面白いのは、この両者の議論(とくにトマス)をもとに、神の善性について、偉大さ(被造物を創造した点において)としての善と、ペアレンタル(被造物を庇護するという点において)な善という二系列があるとした上で、それらの善と地獄の罰との両立可能性があるかどうかを改めて検証しているところ。

結論から言うと、上の二系列の善と地獄の劫罰とからなるトリレンマはやはりどうあっても解消しきれない。まあ、わかりきった結論ではあるけれど(苦笑)。でもそれにいたる途中の話はいろいろと参考になるかもしれない。たとえば処罰観の変遷。アウグスティヌスは(後のトマスもだが)、結局存在することは非在であるよりも善なのだから、地獄に落とされた者たちも存続させることが善なのだと言う(けれども論文著者が言うように、当人からすれば永劫の罰に苛まれるよりも消滅を望むだろうという視点は、この議論にはない)。これが中世になると、処罰と罪のバランスという観点から、永劫の罰は永遠の神に対する侵害に相応しいものなのだとされる(再び論文著者が言うように、無限の神が有限の人間に侵害されることはありえない、という視点はこの議論にはない)。さらにダンテの地獄観から着想されたエレノア・スタンプ(現代の研究者だ)の解釈も紹介されている。地獄の人々は、それぞれの罪に対応する限定的な善に拘泥しつつ永遠に存在することを選択したと考えられ、これを神が許したとするならそれも善だと言えなくもない、というわけだが、論文著者はこれにも、非在のほうが望ましい状況もありうるなどの批判を展開してみせる(詳細は割愛)。

上の神秘主義的な回答も、そうしたトリレンマへの一つの対応ではあるのだろう。そのあたりは中世(盛期)の弁神論の限界をなしているのかもしれない(?)。でもやはり考えてみたいのは、トマスだけが中世思想ではないのは当然であるし、上の二系列以外に神の善性の考え方というのはないのかしら、というあたりか。