アイネシデモス

古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)なにやら現代版政治的ドグマティストらの断行が世間を騒がしているが、こういうときにはいったん気を静めて、この先のための静かな怒りを備給するに限る。ならばスケプティシズムを読むというのも一興かも。……という次第もあって(やや強引だけれども)、最近文庫化されたJ. アナス&J. バーンズ古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)(金山弥平訳、岩波書店)を眺めているところ。セクストゥス・エンペイリコスが『ピュロン主義哲学概要』で取り上げていた、判断保留の論拠となる「一〇の方式(トロポス)」を、文献的・認識論的な見地から総合的・批判的に検証しようという一冊。まずは概論(第一章から第三章)として文献的な話が出、そこから一〇の方式を一つずつ各章で詳細に取り上げている。

個人的にはさしあたり第三章などがなかなか面白い。セクストゥスはこの「一〇の方式」をアイネシデモスに帰しているといい(『論駁』第七巻というから、「論理学者に対して」の巻)、また別の資料からもアイネシデモスがその嚆矢であることが確認されるという(ディオゲネス・ラエルティオスやアレクサンドリアのフィロン)。フィロンをもとにしたものらしいヘレンにオス作と称されるアリストテレス『形而上学』注解なんてのもあって、中世に流布したという話。メッセネのアリストクレスによる言及では、アイネシデモスの方式は「九つ」とされているのだとか(エウセビオスの『福音の準備』)。これはエウセビオスの書き写し間違いか、なんて言われているのだとか……。ちょっと面白いのは、アグリッパ(一世紀末ごろの懐疑主義者)が「一〇の方式」を「五つ」に集約するような議論をしていたといい、そこで出てきた比較的新しい議論を、セクストゥスがもとの『一〇の方式」を記する際に取り込んでいる、といったくだり(第四章)。