ゾシモス『炉と器具について』第一書 7 – 8

7. ゾロアストレスは、あらゆる高い知識と物質的言語の魔術を用いれば、個別的なものであれ普遍的なものであれ、運命のあらゆる悪を回避できると高らかに述べている。その一方でヘルメスは、『内観について』において魔術をやり玉に挙げ、次のように述べている。自分自身を知る気息的な人間は、たとえ素晴らしいことに思えようとも、何かを魔術によって正してはならないし、必然をねじ曲げてはならない。そうではなく、自然や決定(神の)のなすがままにし、おのれを探求することのみに従い、神を認識して、名づけ得ない三幅対をわがものとし、おのれの土くれ、すなわち肉体に対して運命がなすことを許容しなければならない、と。そしてこうも言う。そのように理解し、振るまえば、あなたは聖なる魂のためにあらゆるものになる神の子を観想するだろう、と。みずからを運命の領域から引き抜き、非物体的なものの領域へと移しかえるために、それがあらゆるもの、つまり神に、天使に、苦しみを受ける人間になるのを見るがよい。というのも、神の子は全能であるがゆえに、望むものすべてになれるからである。その子は父に従い、あらゆる肉体へと広がり、それぞれの知性を照らし、幸福なる場所へと押し出す。そこは、神の子が肉体的なものになる以前にいた場所である。(知性は)神の子に従い、その働きかけと導きとによって、その光へと向かうのである。

8. そしてあなたはビトスが記した石板を観想し、三倍偉大なプラトン、無限に偉大なヘルメスを観想するだろう。というのも、トート神は初源の聖なる言葉において最初の人間と解釈され、あらゆる存在の解釈者、あらゆる物体的なものの命名者とされているからである。だがカルデア人、パルティア人、メディア人、ヘブライ人は、その者をアダムと呼んでいる。その名については、処女の地、血のごとき大地、赤い大地、肉の血を表すとの解釈がある。その資料は、プトレマイオス朝の図書館に見出される。それらは(プトレマイオス二世が)エルサレムの高僧アセナスに(翻訳を)委託した際、神殿(図書館)のそれぞれ、とりわけセラピス神殿に置かれた。この高僧は翻訳者としてヘルメスを派遣し、ヘルメスはヘブライ語の作品をすべてギリシア語およびエジプト語に訳した。

– わざわざ気息的な人間とされているのは、気息(プネウマ)こそが魂の中核をなし、それのみが救済の対象になる、ということによるらしい(底本の仏訳注による。以下同)。この肉体・魂・気息は、その後に出てくる「三幅対」(トリアス)にもしかすると重なるのかもしれない印象……。
– ……とも思ったのだけれど、どうやらそうではないようで。その三幅対については様々な解釈があるらしい(当然ながら)。世界霊魂のことだとか(ライツェンシュタイン)、キリスト教的な意味(三位一体?)に取るべきだとか(スコット)……フェステュジエールなどは当初はキリスト教の重ね合わせと見なしていたが、後にはカルデア神託に出てくる、第一の絶対的な神、第二の世界創造の知性、第三の知性(役割などは微妙に|曖昧)の三幅対を考えるようになったとのこと。また、神・子・人間の三幅とする解釈もあるという(ジャクソン)。いずれにしても、キリスト教に限らず、三幅対の考え方は異教にも広く見出される……。
– 神の子の解釈も問題含み。これをロゴスとする解釈は、ヘルメス選書の『ポイマンドレス』で、ロゴスが神の子と一度だけ呼ばれているから、というのがその理由。ただ、そちらでのロゴスの役割は目下の文章のものとは重ならない……。ちなみに、グノーシス派のイエスと同一視する向きもあるという。

– ビトスについてはほかに言及がないということで、πίναξ ὃν καὶ βίτος γράψας(ビトスが書いた石板)ではなく、πίναξ ὃν Κέβητος γράψας とし、さらにこれをπίναξ ὃν Κέβης τε ἔγραψε(ケベスが書いた石板)と読むという解釈もあるという。テーバイのケベスの石板というのは現存していて、内容はストア派的な傾向の倫理学で、成立は1世紀頃とか。でもこれにも反論がある模様。より広範に受け入れられているのはビトスをビテュスとする解釈で、この場合のビテュスは、イアンブリコスが『エジプト秘儀論』で、アモン王に魔術を明かす預言者ということで言及している人物とされる。でも、ほかにもいろいろな可能性が示唆されているようだ。
– プトレマイオスの図書館は、プトレマイオス一世が作ったアレクサンドリア図書館。図書館は二つあり、一つはムセイオンのもので、宮廷内にあってエリートしか閲覧できなかった。もう一つはセラピス神殿にあり、そちらは一般に公開されていた。ここで示唆されているのはアレクサンドリア図書館で行われた聖書の翻訳プロジェクトのことだといい、もともとはプトレマイオス二世(前三世紀)が指示したもの。高僧アセナスという名もほかには見られないらしい。エルサレムの高僧といえばエレアザロスという名が一般的という。