現実と認識と言語と

あるようにあり、なるようになる 運命論の運命これも秋の期待作の一つだった、入不二基義『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』(講談社、2015)を読む。運命論を論理学方向の軸線でずらしていって何が見えるかを検証するという一冊。まさに知的なチャレンジだ。一般に運命論というのは、現在から未来にわたって任意の事象の発生・存在が決定済みであることを言うわけだけれど、「未来にわたって」というのは、過去から現在への時間の流れにおいて事象が決定済みとなっていることを、未来へも投影することを意味する。また、決定済みであるということは、可能性が開かれていないことを意味する。でも当然ながらそれらには反論も可能だ。というわけで、同書はこれらの点をそれぞれひたすら突き詰めていく。前者は、「時間の等質的な推移」と「時制的な視点移動」という原理を前提にしている(アリストテレスの運命論批判は、この原理自体を批判しないがゆえに不完全とされる)。後者は排中律で表される論理的な必然性が問題になっている(ここでもアリストテレスの批判は、論理的な必然性(あるかないか)に向けられるだけで、運命論が用いる「現実的な必然性」(現実にあるかないか)を捉え損なう、という)。ここで前者に対しては別様の時間理論(過去や現在に対する、無としての未来の断絶)を導入し、後者については現実性を取り込む形で議論は進めると、思いがけず(?)議論は大きく動きだす……。

これがまさに著者のメソッド。ややもすると論理学の煩雑な議論に始終しがちな議論を、その外にある認識や言語の問題を引き込んで開いていく。すると、様々な概念の拮抗、潰れ、空隙、そして特異点が明らかになっていく。そのあたりはまさに圧巻。現実というのは不明瞭なのっぺりとしたものであるのに、そこに認識主体がなんらかの認識を切り出し、言語に合わせてそれを操作するがゆえに、様々なものが析出されてくる、というわけだ。時制の問題もそうだし、事物の「必然的な」在り方というのもそう。運命論そのものに関しても、そこから析出されて明らかになるのは、運命論批判がどこまでいっても持ち続ける不完全性と、運命論自体がもつ捻れた不完全性だったりする……。

個人的に興味深いのは、後半で取り上げられているダメットの議論のうちの一つ。「遡及的な祈り」と名づけられた、すでに起こってしまっている事故で、身内が生存者に入っていますようにと祈るような場合。著者はここでも、遡及そのものについて考察してみせ、祈っている今の現在と、祈りが向けられる過去時点の現在とが重なることを指摘している。祈りの特殊性はまさにそこ、すなわち現在が「運命論的に」働くことにあるのだというのだが、同時にそこには一種のあきらめ、断念が含まれるともいう。このあたり、個人的にはジャン=ピエール・デュピュイの前未来形的に災害を先取りする議論(「すでに災害は起きてしまっているだろう」)にも重ねてみたい誘惑に駆られる。前未来の物言いを生きることもまた、二重の現在が重なって潰れるという意味で、運命論的な含みをもった構えということになるのかしら。