ヒントも細部に宿りたまう……

2016-02-05 14.36.34クラウス・リーゼンフーパー『思惟の歴史―哲学・神学的小論 (クラウス・リーゼンフーバー小著作集)』(知泉書館、2015)を読んでいるところ。ざっと半分。小著作集ということで、短めの論考を集成したものなのだけれど、山椒ではないがそれぞれ見事に「ぴりりと辛い」。同書はある意味、探求の指針、あるいはヒント集のようなものではないかという気がする。それぞれのテーマ自体は、どこかですでに目にしたものばかりなのではあるけれど、もちろんこれまでで論じ尽くされているというわけでもなく、そこに著者は巧みにかつしなやかに、議論の整理と新しい要素を加えてくる。それがとても興味深いところ。たとえば、12章「主体概念の誕生」では、哲学史を考える際の視点として、理論哲学、存在論、形而上学としてだけでなく、知性論の発展として研究する可能性を示唆し(その観点自体も重要だ)、13世紀後半からのラテン・アヴェロエス主義を再考している。当然ながら、取り上げる神学者ごとの能動知性と可能知性の捉え方の違いが問題になるのだけれど、興味深いのは、アルベルトゥス・マグナスからフライブルクのディートリッヒ、さらにマイスター・エックハルト、グリュンディヒのエックハルト(マイスターとは別人)というドイツの系譜を辿っていること。マイスター・エックハルトの教説に、ディートリッヒが理論化した能動知性・可能知性の議論を読み込むことができる(エックハルト本人はそういう言い方はしていない)というのは、なにやらとても新鮮な議論。さらに最後のグリュンディヒのエックハルトという人物(寡聞にして知らなかったのだが)は、ある意味ドイツ観念論を先取りした、思想的な上流として捉えられている。

別の例を挙げるなら、同じく15章「『個』の認識可能性−−トマスとスコトゥスの間に」でも、個体認識をめぐる両者の違いを整理している。とくにはっとさせられるのは、スコトゥスが個の個性を認めるにあたって、それを愛の志向性(愛は知と違い、最初から個をそのものとして主題化する)に絡めて論じていることに注目している点。そしてさらに、フランシスコ会派が用いる、モデルとしての対人関係の根底にある神学的な根について、スコトゥスの弟子筋にあたるウィタリス・デ・フルノ(これも寡聞にして知らず)が言及していることを指摘している。このような、ごくさらっと言及される細部にこそ、大きなヒントが示されている感じだ。