15世紀の唯名論・実在論論争

Philosophy and Learning: Universities in the Middle Ages (Education and Society in the Middle Ages and Renaissance, Vol 6)少し前までメルマガのほうで、ルブレヒト・パケによる、唯名論系の教説を禁じた1340年のパリ大学の規約についての研究書(Ruprecht Paqué, Le statut parisien des nominalistes, PUF, 1985 )を見ていたのだけれど、唯名論がらみの論争は当然そこで終わりではなかった……。というわけで、今度は15世紀にルイ11世が出した禁令についての論文を見てみた。ゼノン・カリューザ「1474年から82年の危機:ルイ11世による唯名論の禁令」(Zénon Kaluza, La Crise des années 1474-82: L’Interdiction du Nominalisme par Lous XI, in Philosophy and Learning: Universities in the Middle Ages (Education and Society in the Middle Ages and Renaissance, Vol 6), éd. Maarten J.F.M Hoenen et al., Brill, 1995)というもの。当時の論者たちがすでにして唯名論vs実在論という枠組みで話をしているため、そうした教義上の争いがあったかに見えるものの、事態ははるかに複雑だったようだ。基本的な流れは、1474年にルイ11世がパリ大学での唯名論禁止令というのを出し、1481年に撤回されるまでの間、唯名論側には逸名著者によるルイ11世への訴え(「手記」)が出されるなどの動きがあったりした、というわけなのだが、ルイ11世はどうやら唯名論が「異端」であるという説を吹き込まれたらしく、それにいたる文脈として、15世紀初頭に異端として裁かれたフス派が「実在論」と同一視されていたということがあり、そちら側が敵(つまり唯名論)側の「異端性」を煽ることによって自分たちの立場を守ろうとした、といった側面があるようだ。いわば逆襲である。この論考の著者によれば、ゆえにそこには教説上の対立というよりも、むしろ政治的な対立関係が色濃く見てとれるのだという。

と同時に、対立を通して見える教義的な議論というのも、ひどく単純化されているらしい(相手を攻撃するのだから、ある意味当然なのだが)。論文著者によれば、詳細に見ていくと、たとえばフス派がらみでプラハの大学からドイツの論者たちが引き上げたのも、彼らが唯名論者だったからというわけではなく、むしろ民族対立によるものだったとされる。またその後のルイ11世の禁令でも、唯名論の代表格としてはオッカムやヴォディハム、ビュリダン、リミニのグレゴリウスなどなど、前世紀の唯名論者の名が列挙されているばかりで、推奨される教説も、トマス・アクィナス、エギディウス・ロマヌス、ドゥンス・スコトゥスなどで、さながら14世紀vs13世紀というふうに見えてしまうが、実在論側の13世紀への回帰はあくまで思弁的なものにすぎなかったようだという(15世紀当時の学知の進展とは切り離されていた)。また15世紀を通じて、唯名論の著者たちはほとんど読まれていなかったといい、むしろ実在論のほうが読書という点では優勢だったとされている(大学図書館の貸し出し記録などが残っているというが、唯名論の著者のものは数える程度しかないらしい)。

いきおい、誰が唯名論者、誰が実在論者なのかといった帰属の問題すら揺らいでいる部分があるといい、同時代のピエール・ド・リヴォ(=実在論)、アンリ・ド・ゾムラン(=唯名論)の括りには疑義も差し挟まれているという。また、上の唯名論側からの国王への訴え(それ自体は失敗に終わるわけだけれど)も、記述はかなり単純化されているといい、唯名論側はジャン・ジェルソン(唯名論)のスコトゥス派の形式論批判を再現しつつ、多様な実在論の議論がそこに集約されていたりするという。このように、議論の単純化や偽の教義論争に隠されて、ずっと複雑な政治関係が背後に横たわっていたということが、この論考の主旨となる。すでにして「普遍論争」といった名称がそぐわなくなっている唯名論と実在論の対立も、時代が下るにつれて史料も増えるだけに、いっそうその複雑さが露わになってくるということか。