【要約】アリストテレスの音楽教育論 (1)

『理想』のアリストテレス特集号(理想 第696号 特集 アリストテレス―その伝統と刷新、理想社、2016)にざっと眼を通してみた。注目のトピック(流行の?)としては「無抑制(アクラシア)論」などがあるようだけれど、個人的には立花幸司「哲学業界における二つの不在−−アリストテレスと現代の教育哲学」という論考が気になった。これによると、アリストテレスにはまとまった教育論のような著作がないせいか、その教育哲学をめぐる研究もまたさほどなされてはこなかったのだという。うーむ。でも、個人的には、つい先日まで読んでいた『政治学』の末尾部分など、なかなか面白いように思われたのだけれど……。というわけで、ふと思い立ったので、その末尾部分の中心をなす音楽教育についての話を何回かにわけて要約してみることにする。『政治学』第8巻第4章の中程からだ。

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アリストテレスはまず、目的がはっきりしている読み書きや体育とは異なり、音楽の場合、なぜにそれを、とりわけその演奏を学ぶのかが問題になると指摘する。それがどのような潜在性(δύναμις)をもっているのか、睡眠や泥酔のときのような安楽と休息のためなのか、それとも音楽にはなんらかの徳性をもたらすことができるのか、が問われる(1339a.11)。この設問に、アリストテレスはまず一般論的な見地から、学ぶことというのは本来安楽ではなく苦しいものだと述べ、楽しみの追求は不完全な存在である子供らに知的な快楽を与えるのは適当ではないと自答している。ではなにゆえに音楽の演奏技術を(他人が演奏する音楽を楽しむのではなく)学ぶのか(1339b.6)。

(ここから第5章)この問題にアプローチすべく、アリストテレスは、音楽というものがそもそも教育に含められるべきなのかどうか、音楽は教育、遊び、娯楽のうちのどの利用において効果的か、を問うていく。ありうべき解答の一つとして、まず音楽は最も喜びをもたらすものの一つに数えられるのだから、そのことをもってしても、音楽は子供の教育に含められてしかるべきだ、という議論が取り上げられる。喜びは最終的な目標(教育の?)にも適合するが、安楽の獲得にも適合する(1339b.25)。そのためこの安楽のほうに、人は流されていきやすい。喜びそのものが目的化してしまう、あるいは最終的な目標がもたらす快(それは将来的な快だ)と、その刹那的な喜び(それは苦役などの過去的なものから反動的に生じる快だ)とを取り違えてしまう(1339b.32)。ここでのアリストテレスはそうした喜びによる議論に否定的に見える。

けれども音楽の場合には、単にそれだけにとどまらない。演奏もまた安楽をもたらす源となるからだ(1339b.40)。その場合の快は、そうした苦役からの解放といった意味での快にとどまらず、別様の快、人の性格(エートス)や魂にまで影響する快でもありうる(1340a.6)。音楽はそれを学ぶ者に、そうした影響力をもちうるのではないか、と。こうしてアリストテレスの分析は、ここから音楽がもたらす心的作用のほうへと移っていく。(続く)