ルターの提題の「あわい」

まだ序章を見ただけだけれど、思うところあって、松浦純『十字架と薔薇―知られざるルター (Image Collection精神史発掘)』(岩波書店、1994)を見始めているところ。これは宗教改革の旗手ルターの評伝。刊行年は少し古めになってきているが、まだまだ見どころ満載の一冊、という感じだ。序章では、九五箇条の提題に絡む当時のドイツ教会の情勢とルターの動きを、「パラドクサ」というキーワードで切りとって見せている。ポイントとなるのは、当時のヴィッテンベルクでは、ルターの講義が発端となって、アウグスティヌスへの回帰の動きが大学ぐるみで生じていて、そのために公の討論が求められ、ルターの提題もそのために記されたのだという点(p.17)。結局討論は行われずじまいとなったわけだが、九五箇条の提題はとりたてて特別な位置づけを与えられていたわけではないという。それが広まったのも、また宗教改革の発端になったのも、実はルターの意図したところではなかった(と、本人も述べている)(p.18)。とはいえ、一般にその直接の問題をなしていたとされる贖宥状頒布の問題ですら、提題の単なる個別問題だったのではなかったといい、包括的な改革の議論から考え抜かれていたという点で、宗教改革が改めてルターの意図した改革の線上に位置づけられる、とも解釈できるという(p.19)。この両者の逆説、あるいは齟齬のあわいの部分に分け入っていこうとする読みが、ここで目されているのは明らかだ。様々な目配せと繊細な文献の突き合わせを要する細やかな作業が予想されるけれど、そのような読みが面白くならないわけがない(かな?)。