宗教と哲学の構え方?

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)思うところあって、ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)』(桝田啓三郎訳、岩波書店、1969 – 2016)を読み始める(気分はもう夏読書という感じではある)。早速ながら、この第二章がなかなかよい。大上段に構えた「宗教の本質」といった抽象概念から話を進めるのではなく、ボトムアップ的に「宗教的感情」というものを個別のケースから分析していこうとしている、その姿勢にまず共感する。そこから、考察の対象に据えるのはあくまで個人的宗教で、制度的なものではないというスタンスが浮かび上がる。神的なものを感じるという内的体験はどこから来るのか、どのような精神状態がもたらすのかという問題をめぐって考察が展開することが、ここで宣言されているわけなのだけれど、ジェイムズはさしあたりここではそれを「宇宙を受け容れる仕方」と規定し、その際のありようを、ストア派の哲学者とキリスト教の聖者でもって対比してみせている。前者の代表とされるのはマルクス・アウレリウスで、その受け容れ方は「冷たい」「情熱と歓喜がない」とされる。一方の後者は、『ドイツ神学』なる文書の14世紀の逸名著者に託されている。そちらは「高級な感情の興奮をもって」(「熱く」?)受け容れるとされている。その差異は、前者が神の計画(宇宙のありよう)への同意、後者が神の計画との合致呼応だとジェイムズはまとめてみせる。うーん、だけれど個人的には、マルクス・アウレリウスの構え方にも、抑制されてはいるのかもしれないが、どこか沸々とした熱いものが感じられないわけでもないと思われるのだが……。確かに、表出の違いはあるだろうし、受け容れに際しての感覚の巻き込みをどれほど伴うのか、という点の違いもあるのかもしれないが、その「熱いか冷たいか」というテーマ系自体にも、内実を開いて細やかな分析を施すことができそうにも思える。また、そうした感情の巻き込みがどこから生じるのかという、よりストレートな問題設定も当然ありうるだろう。そんなことをツラツラ思いつつ、次の章へ……。