デカルト自然学の輪郭

デカルトの自然哲学 (岩波オンデマンドブックス)以前から読みたいと思いつつ、なぜかすれ違っていた(苦笑)小林道夫『デカルトの自然哲学』(岩波書店、1996 – 2015)をようやく読了。仏Vrin社から著者自身が出した仏語版をベースに、日本語版として一部加筆などしたものらしい。自然哲学の面からのデカルトへのアプローチは、今なお国内ではあまり類を見ないので、すでにしてとても貴重な一冊。個人的には四章以降の具体的な自然学を扱った各章がとりわけ興味深い。まずもって、等速直線運動としての慣性の法則を、デカルトがいち早く設定し、それによって無限宇宙の概念(ジョルダーノ・ブルーノ)に物理学的根拠が与えられたといった指摘がなされている(p.92)。円運動も、直線慣性運動と直線加速度運動に分解され、それらの合成によるものとされて(p.100)、もはやアリストテレス的な伝統の、円運動を完全なる運動と考える視点はなくなる。運動は時間と空間の関係で、「関数的あるいは解析的に」(p.101)解明しようとされる。物体の運動は「宇宙の秩序や物体の目的原因ないし形相原因というものに関わらせることなく、その現実態において探求することが可能になった」(p.116)というわけだ。静力学、流体力学において、それは大きな成果を残すことにもなる、と。

しかしながら、と著者は言う。デカルトの自然学においては、宇宙論が地上の物理学に先行していなければならないとされ(p.103)、この根本的な見地がやがてその自然哲学の発展を阻むことにもなる。かくしてデカルトは質料概念を捉え損なってしまい、物質量だけでなく表面積なども関係すると考えてしまう(物質即延長説と空間を満たす微細物質の考え方による逸脱)。そうした一種のホーリズムによって、たとえば自由落下の探求は妨げられてしまう(p.156)。また複振子の振動中心も見いだせないと考えてしまう(p.161)。『書簡』に見られる進んだ数学的発想と、『哲学の原理』の第三部、第四部で展開される宇宙論との落差が、このように鮮明に示されている。