主体論の深度

〈私〉の哲学を哲学する先に触れたアラン・ド・リベラの主体の考古学は、歴史的な事象をアナクロ的に行き来しつつ、その主体という問題圏を多面的に(立体的に?)浮かび上がらせようとする試みと見ることができる。それはときに、思想史的な論究を越えて、その哲学的な問題そのものの深みに潜って行きさえする印象だ。それに類する哲学的な論究で、邦語で読めるものとして代表的なのはというと、永井均氏などの哲学的思索がある。というわけで、積ん読の山から、同氏ほかによる論集〈私〉の哲学を哲学する』(講談社、2010)を読んでみた。基本的に永井氏の一連の著作をめぐるシンポジウムの記録ということなのだけれど、参加している各人(入不二基義、上野修、青山拓央)の応答などが大変興味深い。個人的に永井氏の著作は網羅的に追っているわけでもないのだけれど、いくつかは既読なので、さほど抵抗感なく議論を追うことができる(ように思う)。議論はいくつかのトピックを中心にめぐっていく。その一つで、前半のメインになるのが、「無内包」の概念(語義的には概念が内包されていないということなので、これは妙な言い方になってしまうけれど)。「私」というものの問いを突き詰め、構造的にその成立条件へと遡ろうとするときに行き着く(そして問題となる)、実体的な拠り所のなさを語る言葉だ。

それはいわば前言語的な段階へのアプローチ。コンピュータにたとえるなら、機械語のレベルに遡る試みは現象学などにも見られるものの、こちら永井哲学はある意味、ほとんどBIOSにまで迫ろうとする話のようにも見える。もちろん、それ自体を高次の言語の側からのぞき見ることは不可能なのだけれど、その段階にあってもなお、なんらかの原初の痕跡をどこかに探れないかと健闘しているかのようだ。そんなわけで、そうしたアプローチの一つという意味では、永井氏の「第0次内包」や、入不二氏が批判的に示唆する「マイナス内包」といった区分けは、永井氏曰く「どちらでもよい」ような話ではある。もちろん、だからといってそれが刺激的な議論にならないわけではないのだけれど。

デカルトの言う「コギト」の内実もまた、現実でないわけにはいかない唯一のもの(上野氏)ではあるけれども、それ自体は前言語的な何かでしかない。それを考えるのが永井氏による主体の開闢論、ということになるわけなのだが、上野氏はそこに、ラカンのシニフィアンの構造(他者が言う「私」を、主体が自分を指す「私」として取り込むという逆転現象の理拠)とデイヴィドソンの真理についての根源的解釈(意味がわかるということは、その発話が真になる真理条件を知っていなくてはならない云々)を繋ぐという、とても意義深い解釈を差し挟んでいる。また、一方で青山氏が提起したような、様相理論で言うところの可能世界と、他者が主体として抱くであろう世界との差異の問題(様相と指標の大きな違いは、実在性についての直観だとされる)なども、同様に興味を誘うところだ(これに対する永井氏の応答では、氏の「独在論」に則るならば、どちらも「場所」と「発話の口」がないがゆえに、実在しえないとされる)……。分析哲学系の微細な話と、主体の構造的な捻れの話などが絶妙に接合されて、同書はとても豊かな意味論的空間を開いてみせる。もちろん、そうした問題に携わる際の、言語そのものに内在する不自由さのようなもの(それと格闘するのがすなわち哲学だ)も、如実に示されたりするのだが……。