文学研究者と未読問題

遠読――〈世界文学システム〉への挑戦フランコ・モレッティ『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』(秋草俊一郎ほか訳、みすず書房、2016)を読了。これは方法論を味わう一冊という感じだ。モレッティはイタリア出身で、後にアメリカで活動するようになった文芸批評家とのことだ。同書は個人論集で、90年代以降の10編を編んだもの。発端となる(全体を貫く)問いかけは次のようなものだ。世の文学研究者もしくは文学通は、当然ながらカノンとされた書を多々読んでいるだろう。けれども、カノンと認められた文学など、世界文学からすれば全体のほんの一部でしかない。ではその場合、その研究者もしくは通の人は、「世界文学」というものを真に理解していると言えるのか?そんな挑発的な問いかけから始まる一連の論考。著者は自身の問いかけに対して、ではカノンとそうでないものを分けるのは何かと問い、そこに形式論的な枝分かれや、ウォーラーステインに触発された中心と周縁のシステム論、外国の形式と地域の題材との組み合わせ等々、様々な道具や発想を用いてアプローチしていく。

もちろんどれもがうまく行っているわけではなさそうで、批判にも晒されているようだけれど、それらへの対応も含めて、形式の分析へとひたすら突き進んでいく。表題の「遠読」で提唱されているのは、カノンの外側を見るため「いかにテクストを読まないか」(p.72)、つまりテクストよりもずっと(小さくて)大きい単位(技巧、テーマ、文彩)に焦点を合わせることを目的として、距離を取ることを学べということだ。様々な作品がデータ化されアーカイブ化され、それらをネットワーク的な観点から分析することが可能になったがゆえの現代的アプローチ。プロットだけを扱う物語の構造分析も今や過去の話か。こういうのを見ると、思想史におけるカノンと、その外部にも思いを馳せずにはいられない。もっとも思想史、とくに中世や古代のものは、19世紀あたりの小説作品とは違い、ときにそもそも残っていなかったりもするわけだけれど。モレッティのようなアプローチ(それはまだ十全に精緻化されているとは言えそうにない)が、失われたテキストのなにがしかの復元に貢献するようなことは今後ありうるだろうか、というあたりがとても気になる。