自由についての再考……

時間と自由意志:自由は存在するか (単行本)青山拓央『時間と自由意志:自由は存在するか』(筑摩書房、2016)を、巻末の補論を除いて読了。自由意志は本当にあると考えてよいのかどうかというテーマを、ちょっと面白い問題設定から出発して再考している。自由意志が発揮される局面、つまり選択による分岐問題だ。この分岐という考え方も、突き詰めていくと、確かにその分岐点というものがどう位置づけられるのか厳密には見えてこない。分岐点が時間軸上にあるとすると、その点(時点)は選択した時間、選択されなかった時間のどちらに位置づけられるのかが曖昧になってしまう。するとむしろ多世界説のように、二つの系列の時間が平行して進んでいるといった話のほうが良いのでは、という考えも出てきる。けれどもその場合、分岐なるものは厳密には存在しないことにもなってしまう。時間軸はもともと二つあったのか、一つが分裂したのか?あるいは、単線的決定論を採るのがよいのか?けれどもその場合、今度は別様の可能性が、元来はあるのに実質としてはなくなってしまう。ならば説明不可能な偶然を承認して、可能性を説明不可能なまま残すのが妥当なのか……(第一章)。

同書の緻密な論理展開を端折ってしまえば、メインストリームは次のような話になっていく。上のような偶然を認めてしまうなら、様々な可能性の一つは無根拠に現実化することになる。けれどもそれは、単線的決定論を採用せずに分岐問題を解消させる唯一の方途ということになる。自由意志すら偶然の一種として見なすことができるのではないか、と著者は言う。自由意志と偶然は通名をもたない何か同じものの、二つの異なった現れなのだ、というのだ(第二章)。さらにまた、その何かは構図として分岐の外部をなすものであって、そこにはもはや無自由という境地(自由を前提とする不自由ではなく、自由も不自由も超越した状態)があるのみだ、とされる。同書は認識論的な観点からの自由の検証などを経て、さしあたりのクライマックスとして、自由と人称に絡む複合的な図式を浮かび上げようとする(第四章)。これまた極北的な記述へと誘うところが、多少寒々しいながらも刺激的ではある。

経験論と心の哲学本筋からはちょっと離れるけれど、個人的には、様相の問題を絡めた第三章がとくに注目だ。ちょうどメルマガのほうでセラーズの心理的唯名論(ウィルフリド・セラーズ『経験論と心の哲学』、浜野研三訳、岩波書店、2006)を部分的に読んだということもあって、タイプとトークンの話が興味深い。青山氏は、タイプに認められる論理可能性(ありうる)とトークンに認められる実現可能性(なりうる)には断絶があり、一方で両者が結びつくには、実現可能性が論理的可能性に「昇格」しなければならない、としている。つまりタイプ化が不可避だというわけだ(その上で、実現可能性が論理的可能性に先行することを、時間の様相に対する先行に重ねている)。セラーズは、両者を繋ぐ鍵として、トークンについての語りの信任と、報告者の正当化が必要だとしていたわけだけれど、論理可能性へのシフトはそうした信任・正当化と表裏一体の関係にありそうだ。このあたりをもっと深めることはできるだろうか?