「人間不在の思想は可能か」

ダーク・ドゥルーズ
少し前に出たアンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』(大山載吉訳、河出書房新社、2016)を、先日ざっと読んでみた。少しばかり消化不良というか、内容の細かな部分にはとくにコメントはないのだが、やや全体的に違和感も覚えたりする。表面的には、解放のための思想として読まれることが多かったドゥルーズを、むしろその否定的側面、既存秩序の破壊的な面から読み直すということを訴えたマニフェストなのだろうけれど、それ以上にドゥルーズはダシに使われている感じもし(?)、むしろ力点は既存秩序を越えて現実世界の徹底破壊を説こうとすることに置かれているかのようで(そちらのほうに読み方を引っ張っていく)、そのあたりにある種の共鳴しにくさを覚えるのも確か。そこでは人間性の諸問題を見据える・前提とするといった問題機制・視点があまり感じられず(……なんて言うのがそもそも古いのかもしれないが(笑))、例によって(この種のマニフェスト的な思想書にありがちということだが)提唱する変革・破壊の先に何があるのかは明確には示されない。それではいくら抜本的な革命を説こうとも、言説は空転するばかりになってしまうのでは……と、つい老婆心的な物言いをしたくなってしまう(じじい的だが(苦笑))。こう括ってよければ、こうしたある種の人間不在のスタンスは、正直なところどう判断すべきか悩むところ。そもそも人間不在の思想というものがありうるのか、それは議論として正当化できるものなのか、それは何か意味をもちうるのか……。メイヤスーやハーマンなども、ある意味人間不在感を沸々と沸き立たせるような議論を展開しているし、なにやらそうした思想潮流のようなものが、どこか不気味な預言的・終末論的胎動を感じさせることも否定しがたい。

非人間的に論理性を突き詰めるある種の分析哲学的ビジョンですら、その前提には人間の認識能力、推論能力への信頼みたいなものがあって、どこかで人間性に「繋がっている」。ところが別筋のほうから、それすらが希釈化され、下手をすると抜け落ちてしまうというような見識が、なにやら徐々に浮上しつつあるような感触さえ覚える……というわけだ。けれども、そういう不気味さにいつまでも拘泥しているわけにもいかない。で、そうなると考えてみたいのは、ではそうした呪術・預言めいた部分をそぎ落とした形でもなお、人間不在の観点、人間を基礎に据えないビジョンというのが喧伝できるのかどうか、できるとすればどういう論拠にもとづいて可能なのか、というあたりのこと。少しそうした問題をめぐる文献に目通しする必要もあるかもしれない。そのようなものとして、さしあたり、三類型くらいはあるかなと思う。1. 世界の破壊(を伴う変革)のビジョンを中心に据えるもの、もしくはそれを前提とする議論、2. 人間性から離れたところで、ある種の唯物論のようなものを徹底化するもの、3. 人間以外のもの、人間を越えた何かをビジョンの中核にすえようとするもの。この三つめなどは、古来からの神学思想の世俗版などが考えられる。