追記ーー言葉三題

前回取り上げたモンゴメリ『翻訳のダイナミズムは、第三部もなかなか面白く、英語一つとってみても地域ごとの多様性に満ちあふれているということ(ある意味当たり前の話ではあるが)を、インドの科学論文の表現と、英米の標準的な論文表現との対比を例に示している。前者から後者への書き換え例なども示されているが、そこから浮かび上がるのは、大筋は同一内容でも、それら局所形と標準形とで必ずしも同じ認識が示されているわけではないということ(これまた当たり前ではあるが)。後者の言説の普遍形に、前者の文化・言語的な現実が抵抗を示している、と著者は見ている。さらにフランス語での地質学の論文の例を挙げ、その逐語的英訳と、英米流に書き直したものを対比し、フランス語文の「作家性」(美しく語を用いるという意識)や言外の意味が、後者ではそぎ落とされていく実例を示してもいる。「近代性のきらめきの下に目をやれば、科学テクストにも、レトリックの機微や論理の踏み外し、思わせぶりな用語に半端な繋ぎ方、大きな社会への訴えのほか、(中略)哲学表現や美的技巧にあふれているのだ」(p.386)と著者は言う。

知の歴史学それにしても英米の標準とされる英語は、ある種の無駄を徹底的に省くというスタイルであることを改めて感じさせる。これに関連して思い出したのが、前にも取り上げたことのあるイアン・ハッキング『知の歴史学』(出口康夫、大西琢朗、渡辺一弘訳、岩波書店、2012)に収録された論考。「歴史家にとっての「スタイル」、哲学者にとっての「スタイル」」(第12章)というそれは、たとえば学問分野が違えばまずもって論述の、あるいは推論のスタイル(平たく言えば事象の捉え方か)は異なり(もちろんそれは分野だけではなく、個人やその他の諸活動に敷衍できるものだが)、そのスタイルこそがある種の文の実証性を獲得させるものだということを論じてみせている。ある推論のスタイルが導いた、特定の種類の文が真であるのは、そのスタイルによって担保されるのだというのだ。ゆえにスタイルは「客観性の基準となる」(p.378)のだ、と。スタイルは知識そのものよりも安定しているとされるが、それ自体変わらないものでは必ずしもない。この「スタイル」の観点は、同一の学問領域での地域差などにも応用できるかもしれない。上の英米の標準的表現もまた、スタイル的な担保の観点から解釈することで(スタイル概念をハッキングのものよりも少し狭く取る必要もあるだろうけれど)、安定性のメカニズムをより厳密に明らかにし、翻って標準的表現の地域性なり限定性なりを浮かび上がらせ、英語圏内での相対化を図るよう仕向けることもできるのではないか、と……。モンゴメリの議論はまさにそういった問題圏の入り口へと踏み込んでいるように思われる。ちなみにハッキングはスタイルの「自己安定化テクニック」について語り、それに関連して「捨て去られたスタイル」(ルネサンス期の医学、魔術など)を探求する方途を示唆したりもしている。また、さらにそれを広義の人類学へと開いていく途を思い描いていたりもする。

ハッキングの同書は、第10章「根底的誤訳など現実にあったのか」もまた至極面白い。クック船長がオーストラリアで見慣れない生き物を指して原住民に尋ねたとき、原住民は「カンガルー」と言ったためにそれはカンガルーと命名されたが、それは実は現地語での「何て言った?」の意味だった、という逸話が、実は神話にすぎないことを説き証している。カンガルーは現地語で「ガングゥールー」というのだそうで、直示不良(とハッキングはそうした誤解を呼ぶ)ではない、という話。マダガスカルのインドリという動物にも同じような話があって、原住民が「あそこにいるぞ」と言った言葉が「イン・ドリ」で、それを聞いた博物学者ピエール・ソヌラが誤解したのだという。実はこれも同じような事例らしく(この話は辞書にまで載っていてタチが悪いようなのだが)、マダガスカル語の「エンドリナ」(キツネザルの一種)に由来していたという説もあるという。フランス語の明かり窓(vasistas)が、ドイツ語の「それは何(Was ist Das?)」から来ているという話も類似の例で、確かにそこに由来はするものの、外にある何かを見るもの、という機能に結びついた言葉であって、窓そのものが何かと問われていたわけではないらしい。こういう誤解というか、直示不良の罠というのはいろいろありそうだ。もちろん直示不良そのものはあってもおかしくないし、現にときおり生じるわけなのだけれど……。