偽ロンギノス

崇高の修辞学 (シリーズ・古典転生12)名前は聞いてもまだ実際のテキストは未読のディオニュシオス・ロンギノス(伝)『崇高論(περὶ ὕψους)』(1世紀ごろの修辞学のテキスト)。これについての研究書が出たと聞き、さっそく読んでみる。星野太『崇高の修辞学 (シリーズ・古典転生12)』(月曜社、2017)。修辞学的に「崇高」概念を扱った最古の書とされる偽ロンギノスの『崇高論』は、長い忘却の後に16世紀に再発見され、17世紀にニコラ・ボワローの仏訳などで広く知られるようになったというが、その後再び忘却へと転じ、その間崇高概念自体はバークやカントを通じて「美学」の領域で練り上げ直され、やがて20世紀の終わりごろになって、ミシェル・ドゥギー、ラクー=ラバルト、ポール・ド・マンなどが取り上げるようになる……。この大筋の流れに沿って、大元の『崇高論』がどのように「発見」され、また「換骨奪胎」されていくのかを追う、とうのが同書。三部立てで、いわば三段ロケットのような構成。

個人的に興味深い点を二つほど。まず、偽ロンギノスのそもそもの崇高概念が、「いわく言いがたいもの」として、テクネーとピュシス、パンタシアー(ファンタシア)とパトス、カイロスとアイオーンのそれぞれの交差・狭間に位置づけられるとする第一部の説。これら対概念は、ロンギノスにいたる思想的伝統の中で、ときに一方が他方を産出する触媒のように扱われていたりするようだが、それがロンギノスにおいて、ある種別様の明確な区別、あるいは産出関係の逆転のような事態に至っている、ということらしい。伝統の継承とその変形という観点から、このあたりの変遷はもっと深掘りしてほしい気もする。

もう一つは、近代初期においてまさに「いわく言いがたいもの」として崇高概念を訳出した、ボワローの翻訳の問題(第二部)。一般に忠実ではないとされているというその翻訳だが、同書の著者はそこにある種の意図的な操作を見ようとしている。同書に引用されている箇所からすると、確かにその意図的操作という捉え方には賛同できそうに思える。原文にない語の挿入という点は、いわば訳注が字の文に入り込んでいる感じだ。「崇高」そのものと「崇高な文体」という原文にない区別を用いているという点も、読み手への配慮という感じだったりはしないのだろうか。また、原文が「詩人みずから復讐の女神たちを見ている。そして、彼はみずからの心のなかにあるパンタシアーを、聴衆にも否応なく喚起するのだ」となっている部分を、ボワローが「詩人は復習の女神たちを見てはいなかった。しかし、彼はそれを生々しいイメージに変えることで、それをほとんど聴衆に見せるまでにいたったのである」と、字面的には正反対に訳しているという箇所も、ボワローがおのれのファンタシアの理解・解釈(つまりは復讐の女神はそのまま見られうるものではなく、ファンタシアとして見る以外にない、ということか。これは知覚論・似像論という哲学的な問題でもありうる)にもとづいて、ある種の修辞的にな誇張の技法をあえて適用しているというふうに考えることもできる(それが許容範囲かどうかはさておき)。ボワローは、字面こそ忠実ではないとはいえ、解釈をともなった意味を伝えるという「翻訳者的な」姿勢においては、ある種の一貫性を有しているような印象だ(要検証ではあるけれど)。

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