ブレイエとマクタガート

前回の記事で取り上げたブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論では、その時間論について、訳者の江川氏の論考部分が次のように指摘している。ディデュモス(前一世紀の文献学者)が言うには、「クリュシッポスは、現在だけが<存在する>のであって、過去と未来は<成立する>が、けっして存在しないと述べている」という(p.157)。それはつまり、現在が行為・活動そのものとして限定されている(有限の時間)がゆえに、実在的な出来事を含むものとして「存在している」とも言える、ということだと解釈される。時間は非物体的なものなので、そもそも「実在」してはいないからだ。一方の過去や未来は、無限の時間に属し、「現在」の外側に無限に広がっているとされる。江川氏によれば、それは時制的・人称的に活用された動詞によって表される出来事ではなく、不定法的に表される出来事なのだという(p.158)。ここで、この「現在」の問題がにわかに注目される。

時間の非実在性 (講談社学術文庫)そしてこれはとても既視感のある問題でもある。折しもつい最近、時間の非実在性にまつわる哲学史的にも重要な論考がようやく邦訳され刊行された。ジョン・マクタガート『時間の非実在性 (講談社学術文庫)』(永井均訳、講談社、2017)だ。よく知られているように、マクタガートは、モノが時間的に実在するという場合、それは二つの「系列」のいずれかに準拠して言明されなくてはならないという仮説を示し、その二つ、つまり過去から現在、未来へと実体の変化が位置づけられるA系列と、実体が静的な前後関係にのみ置かれるB系列のどちらも、時間の実在を立証するものではないことを論じていく。「現在」の問題は、そのA系列について論じる際に出てくる。いま経験している知覚について言明するには、それを一定の幅のある「見かけの現在」で限定するしかないが、出来事が実在的に通過していく「実在的な現在」はその見かけの現在とはどうあっても一致しない。そこには矛盾が生じる。結局、そもそも実在的な現在はそれ自体として規定されることはなく、一方の知覚される現在とは錯覚にすぎない。すなわち、両者のいずれであろうと「現在なるもの」は実在しない、ということになってしまう……。

こうしてその議論は、ブレイエが説くストア派の非物体的なものの議論と実に見事に重なってくる。マクタガートもまた、A系列にもとづく過去・現在・未来が、動詞の時制にもとづく文法的なものであることを指摘してもいる。時間はこうして「レクトン(言明できること)」に括られるしかないのだろう。余談ながら、ブレイエとマクタガートの両作品が1908年という同じ年に刊行されていることもなにやら示唆的かもしれない、なんて(笑)。マクタガートのこの邦訳も、ブレイエ本と同様に、訳者の永井氏による注解と論考が収録されているのだけれど、そちらもまた、まさしくこの「現在」という問題に切り込んでいる。

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