触覚の復権へ?

触れることのモダニティ ロレンス、スティーグリッツ、ベンヤミン、メルロ=ポンティ髙村峰生『触れることのモダニティーーロレンス、スティーグリッツ、ベンヤミン、メルロ=ポンティ』(以文社、2017)は、20世紀初頭ごろのモダニズムの芸術運動を事例として、西欧が、みずから貶め放擲してきた「触覚的なもの」をいかに再評価し、取り込み直していくのかを考察しようという野心的な論考。触覚の再評価は、これまた詩的議論として実に興味深い論点と言えそうだ。とりあえずざっと前半。触覚が苛まれてきた伝統にも長い歴史があり、同書も冒頭でアリストテレスにまで遡っている。アリストテレスの場合、知的な認識と結びつく視覚と対照的に、生命そのものに等しく宿る感覚として触覚が取り上げられ、根源的なものとして評価されはするものの、人間と動物性との区別のせいで、結果的に触覚は感覚のヒエラルキーの最下方へと追いやられてしまう。それからはるか後代の20世紀、原始的なもの、始原的なものとの関わりが、たとえばプリミティブ・アートとして再興する。さらにはフロイトなどによる人間の内なる始原の再発見として。触覚そのものも、モダニズムの中で再評価され、それに連なる絵画や小説作品が多数産み出されて、抑圧されていたものが蘇る……。

こうした従来型の見立てが果たして本当に有効なのかは、見解の分かれるところかもしれない。触覚的なものへの意識の振り分けは、案外古く、中世末期とか初期近代のあたりから特定できそうな気もするのだが、ひとまずここでは置いておく。代わりにメモとして取り上げておきたいのが、第一章で扱われている、D.H. ロレンス(『チャタレイ夫人の恋人』で知られるあのロレンス)によるエトルリア研究。ロレンスが一貫して抱いていたらしい触覚的なものへの嗜好が、その古代エトルリアの研究にも流れているという話。エトルリアは前一世紀ごろまでイタリア中部にあった都市国家群で、ギリシアとも文化的に異なっていた。で、ロレンスは、ローマとの対立で政治的に価値を貶められたエトルリアについて、その文化的遺物(壁画など)を手がかりに、再評価を試みる。その際、ロレンスはそこに「触れあうこと」「触知による関係性」を読み込もうとするのだという。触覚的なものの再評価は、身体、生命そのもの、情動などの再評価につながる。かくしてこの著書では、ロレンスを論じたジル・ドゥルーズまでもが引き合いに出される。さらにはロレンスの政治観、ロレンスによるセザンヌ論なども。そのあたりの推論の積み重ねは、厳密な論証としてはどうなのかという評価もあるかもしれないが、ある種の詩的なアプローチとしては興味深いものがある。視覚の優位そのものは揺るがなくとも、そこに触覚的なものを絡めることによって、従来型の絵画批評や政治的議論に別筋のアプローチ、異なる視点がもたらされる、みたいな。そうしたやり方を過去の事象に汲み取っていくこと。もちろん、あまりにも恣意的にならない限りにおいて。このこと自体には、決して軽視できない方法論となる可能性がある……。