ウルリッヒ・ベック

変態する世界夏読書の季節だが、今年はこれまでの延長という感じが強い。今年もまた内外の政治的な動向が気になるところでもあり、そうした領域に関係したものを読む比率もそれなりに上がっているのだけれど、そうした流れから、まずはウルリッヒ・ベック『変態する世界』(枝廣淳子・中小路佳代子訳、岩波書店、2017)を見ているところ。ざっと第一部の「導入、証拠、理論」編。同書は全体として、著者の未刊の遺稿を整理しまとめたものらしい。リスク社会が一般化・グローバル化してしまった現代を、単なる変容とは見なさず、むしろ一種の「変態」(幼生から成虫に変わるような)と捉え、それに対応する新たな「コスモポリタン的現実主義(行動主義?)」を提唱し、同時にその社会の変態と、対応する理論に求められる変態の可能性についての理論を構築しようとする、野心的な論考。あるいはマニフェスト。リスク社会のグローバル化という点では、気候変動がその代表的な問題として取り上げられている。

面白いのは、議論の正当化に向けて、途中でパスカルが引用されていたりすること。「神は存在するかどうかのどちらだが、私にはわからない。ただ、私は神が存在するほうを選ばざるをえない。神が存在するなら私の勝ちだし、存在しなくても何も失わないから」というもの(『パンセ』233節)。ベックはこれを気候変動にも適用する。気候変動の実在には、どんなに証拠が挙がっても不確実性がつきまとう。けれどもその不確実性こそが、意志決定にとって決定的な政治的瞬間を作り出す、とベックは言う。気候変動の実在を認め、責任を負うことは、世界をよりよいものにできる契機となりうるかもしれない。その意味で、実在を認めるほうに、プラグマティズム的な選択の理由がある、と。けれどもこうした構え方はある種の批判に晒すことができそうにも思える。たとえば、問題の不確実性を前提にその問題に取り込むことが、別の不確実性を呼び込むことがあるのではないかとか(環境問題にかこつけた原発開発の例のように)、それとはまた別の価値観(成長神話の信仰など)が同じ論理を掲げてきたときにどう対処するのかとか。ベックがそういう批判への対応を考えていないはずはないが、一見する限り、方法論的コスモポリタニズムを称揚するという大義の前に、そうした細やかな対応はやや霞んでしまっているようにも見える(?)。マニフェストなのだから仕方ないといえばそれまでだけれど、そうした議論への細やかな手当てこそが、求められているように思えるのだが……。