フランス近現代のプラトン受容 – 4 (フーコー、ドゥルーズ)

プラトンとフランス現代哲学』は、ヴェイユの後から第二部に突入する。ここから論文の趣向が変わり、フランスの現代思想(旧)の巨匠たちにおけるプラトンへの関わりが検討される。それまでの「研究者たち」にとっての「受容」とは違う側面が前面に出てくる。プラトン受容史というお題目からややずれていくような感触もなきにしもあらずだが、さしあたりざっとまとめておくことにしよう。

まず取り上げられるのはフーコー。フーコーの「自己への配慮」または「精神の鍛錬」の議論は、歴史家・文献学者のピエール・アドの議論に触発されたところが大きいとされるが、その両者のプラトンとの関わりについて相互の差違を明らかにしようというのが、アニッサ・カステル=ブシュシの論考。アドが主張する、古代世界の哲学とは生き方の選択にほかならないというテーゼは、ときにあまりに漠然としているとの批判も買ってきたらしいが、全体としては広範に適用可能なテーゼであり、たとえば精神の鍛錬という概念についても、アドのそれは、主体の修正・変容のなすための実践全体を包摂するのに対し、フーコーはそれを禁欲を構成する諸実践のような、より狭い領域・意味で見いだそうとする。実際アド自身が、フーコーの議論は「自己」にあまりに集中しすぎていると批判しているという。存在の美学や自己の彫琢といった狭い意味合いをアドは認めず、フーコーの議論に見られる「自己の内在化」の動きには、別種の動きないし別の在りよう、つまりおのれが普遍的理性などの一部をなしているといった、世界との別様の関わり方が必要になるのではないか、とアドは言う。論文著者によれば、アドの関心は、哲学が真理を越えて自己との関係を変貌させるその仕方に向けられている。対照的にフーコーは、形而上学的な側面、魂と身体の分離(つまりは死の問題)といった次元にさほど関心を向けないことも指摘されている。かくしてこの論考は、以前から漠然となされてはいたフーコー批判を、改めてアドを通してまとめたという感じの一篇になっている。

続いてエルザ・グラッソの論考はドゥルーズとプラトン主義の関わりを扱ったもの。ドゥルーズはストア派的なものの再解釈の立場を取り、もとよりプラトン思想には批判的だ。実際、イデア論が立脚するモデルと像というそもそもの対立図式をドゥルーズは批判してみせ、それらを生成変化という観点から存在論的一義性に帰そうともする。論文著者が示唆するように、これはまさに形而上学的な転覆だ。けれども、と論文著者は言う。実はプラトンそのものが、同時代的なミメーシスの混乱(ソフィストたちの乱立状況か)をみずから捌いてみせたという経緯があり、あらゆるものをシミュラークルに帰すというドゥルーズの哲学は、実は批判対象の当のプラトンに意外に多くを負っているのではないか、反プラトンでありながらも、根底はプラトン的(もちろん教条的プラトン主義とは異なる)ではないか、と。またこれは、上のフーコーのスタンスとも対照的ではある。

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