フランス近現代のプラトン受容 – 5 (ブルデュー、ラカン)

プラトンと現代フランス哲学』の後半部の論考は、いわゆる「現代思想」の大物によるプラトンへの言及を読み解くことで、彼らがどこか奥深いところでプラトン思想と共鳴していることを明らかにする、という趣旨のものが多い。ドゥルーズもそういう扱いだったが、続いて登場するオリヴィエ・タンラン(ティンランド?)によるブルデューにまつわる論考(pp.239- 262)もそういう一篇。ブルデューはいわゆる「哲学素」をプラトンから汲み取りつつも、プラトンと対立する側、すなわちプロタゴラスの相対主義の側に立つ。つまり、臆見や言論が社会的な条件や文脈に根ざしていて、ゆえに普遍的な射程をもちえない、という立場だ。しかしながら、とこの著者も言う。ブルデューは他方で、学知の領域の社会構造を説明しようとし、理論構築の活動がそうした構造的制約のもとに置かれることで、逆説的に普遍的なものの産出が可能になることをも説いてもいる、というのだ。さほどラディカルではないブルデューの相対主義は「理性のリアルポリティクス」を提唱する。学問の場での社会的行為者同士の利害対立が、普遍的知を産み出す条件になっている、というもので、ある意味これは周回遅れのプラトン主義のようでもある。個人的にもプロタゴラスの相対主義の問題はなかなか興味深いので、そのあたりも含めてそのうち検討してみたいところではある。

とりあえず先を急ごう。ラカン思想とプラトンの絡みを論じたポール・デュクロの論考(pp.263 – 284)も、やはり同じような問題圏を形作っている。精神分析には哲学の「彼方」を目している側面があり、相対的ながら反アリストテレス主義的でもあり、その意味でプラトンの側へと接近してもいるという。ラカンの『セミネール』第19巻では、「プラトンはラカン派である」という一節すらあるのだそうだ。とくにそこで取り上げられるのは、『饗宴』における「愛」についての考察。ソクラテスは愛する側にのみとどまろうとし、愛の対象となることを拒絶する。論文著者のまとめによれば、この非対称性によってソクラテスは欲望の構造(つまり何も欲望しない、虚無への欲望)を明らかにし、あたかも精神分析医であるかのような立場を体現して、主体を欲望の意味の構造へと帰してみせる。これが「愛」についてのラカン流の解釈ということになる。

これは分析医がどうあるべきかといった倫理的な解釈(ラカンのセミネールはもとより精神分析医を相手にしたものだった)なのだが、同時に存在論的な解釈でもある(根源的な構造を問題にしているからだ)。そこで問題になるのは主体の存在。それは「一者」として在りはするものの、現前として在るのではなく、現前を可能にするようなものとして「在る」とされる(多数のシニフィアンを産み出す、不在としてのマスター・シニフィアン)。まさにここに、ラカンはプラトンを「ラカン派」として読み込もうとするのだ、というわけだ。一者のテーマは新プラトン主義的でもあるという意味で、これはなかなか示唆的でもある。論文著者によると、アラン・バディウは「ラカンは反プラトン主義をなんら標榜してはいない」と評しているそうだ。それは急進化し論理化したプラトン主義であり、ある意味きわめて古典的なのだという。著者は論文の冒頭のほうで、プラトンとプラトン主義は西欧文化全体を貫いており、それがラカンにも浸透しているのではないかという仮説を示しているが、こうしてみると、同書に収録の論文に依拠する限り、ブルデューにしろラカンにしろ、どこかそういうプラトンとの通底という側面が、案外否めないような気さえしてくる。