内部・境界・外部

意味の変容 (ちくま文庫)思うところあって、少し前に古書で入手した森敦『意味の変容 (ちくま文庫)』(筑摩書房、1991)を夏読書として眺めてみた。70年代中盤の『群像』に連載されていたという伝説の連作。語り手も、対話相手となる括弧つきの話者も、厳密には特定されないまま、哲学的、あるいは数学的な議論が展開していくという、ある意味で抽象的・思弁的小説作品。けれども今読むと、そのある種の急進性に思わず身震いする。第二編となっている「死者の眼」では、内部・境界・外部をめぐる考察が描かれる。肝となるのは、境界が外部からの認識で立ち現れ、内部からの認識では境界が無限に開かれたものとして感受されるしかないということ。同編ではそれが、望遠鏡から覗く世界のパラドクスという形で示されるのだけれど、このテーマはその後も様々に変奏されていく。たとえば続く「宇宙の樹」でも、その内部からの境界の体験は、微分法的な無限分割がもたらす一瞬の無限のパラドクスとして描き直される、というふうに。これを読んでいると、たとえば昨今ならば、ヴィヴェイロス・デ・カストロが「パースペクティブ主義」と称した他者理解に、どこか誘われるような気がする。外部とされるものの中に固着せず、別種の内部を推論的に見いだそうとすること、あるいはその境界を深遠な無限として経験しようとすること。そんなふうな眼で見ようとするなら、ふと一向に特定されないままの字の文の語り手と対話相手の対話もまた、まるでなんらかの無機物同士の対話であるかのようにすら見えてくる。これもまた意味の「変容」体験そのものに連なるかのよう。