通詞の現象学 – 3

蘭学と日本語杉本つとむ『蘭学と日本語』の第二部は、「蘭学研究・翻訳と近代日本語の創造」という表題で、各章それぞれに近代の日本語成立にまつわる論考が並んでいる。まずその第二部第一章「近代日本語の成立−−洋学との関連において」(pp.145 – 170)。これは当時の蘭学事情を知るための全体の見取り図のようなまとめになっていて、とても参考になる。杉田玄白の『蘭学事始』が示す江戸蘭学とは別筋にあたる蘭学の世界、あるいは長崎通詞の系譜などなど、複数の力線が描かれている。興味深いことに、玄白はすでにして(大槻玄沢の『蘭学階梯』も同様とのことだが)、通詞は語学屋、蘭学者は学問的な研究者であるとして、前者を貶めてみせる。ここには、自己擁立のための他者の排斥といういつもながらの論理が見え隠れする。けれどもその実、著者が指摘するように、蘭学は長崎通詞から始まっているわけで、まさに起源の隠蔽・放逐が体系を支えるという構図でもある。

この論考では様々な通詞・蘭学者の名が挙げられていて、なにやらその全体像に眼が眩む想いがする。オランダ解剖書の翻訳を手がけた長崎通詞、本木良意。外科の楢林鎮山、若くして大通詞となった博学の吉雄耕牛(同書の著者が、研究対象としてなすべくことが多々あると述べている人物だ)。天文学の翻訳などで知られるという本木良永も興味深い。天文・物理などの翻訳を手がけ、また蘭語学の基礎をも作ったという志筑忠雄、そしてその後に来る中野柳圃。また蘭学が私学から官学へと移行する現場に居合わせた馬場佐十郎、さらに後の宇田川玄随とその子にあたる玄真なども注目度が高い。玄真の『西説医範提綱釈義』という書が、当時の学術で一般的だった漢文体に代えて、漢字かなまじりの国字体を用いているという。普及をねらったのだろうと論考の著者は記しているが、これなどはその宇田川家の学風だったといい、多くの蘭学者にもその傾向が見られるという。そちらもまた、自己擁立のための他者との差異化だったのか、それとも異言語との出会いによる、何かもっと深い意識的な変容の所作なのか、そのあたりの問題をもう少し考えてみたい。