数学的対象の存在論 – 3

Philosophie Des Mathematiques: Ontologie, Verite, Fondements (Textes Cles De Philosophie Des Mathematiques)ヴラン社刊のアンソロジー『数学の哲学』(Philosophie des mathématiques: Ontologie, Vérité, Fondements (Textes clès de Philosophie des mathématiques))から。ヒラリー・パットナムの二篇の論考(「数学的真理とは何か」「論理哲学」)は、パットナム自身の基本的立場を明確に示したものと考えられる。それはつまり、数学には固有の対象物というものはなく、どのような定理を掲げることもありうるが、その実在を主張することはできない、数学者が主張しうるのは、あるものは「可能」、あるものは「不可能」ということだけだ、というもの。可能性の概念こそが基本的なものをなし、たとえば集合論の存在概念などは派生物と見なすことができるという立場だ。数の理論はすべて、可能性の言説として表される(「数学的真理とは何か」。この意味において、数学に限定するならば、パットナムは唯名論的な立場を取っているように見える。一方で、これが物理学などの具体的な対象をもった諸学に適用されるというような場合、数学と物理学は相互に密接に入り組んでおり、数学的には厳密に唯名論的でも、物理学的には直観的に実在論が幅を利かす(そもそも外部世界あってこその物理学ではある)。その意味で、物理学を支える実在論に引っ張られるかたちで、数学が実在論の側へと傾斜しているという感じになる。物理的な大きさを数値化するのであれば、関数や実数といった概念をも受け容れなくてはならない、と。ミニマリストな実在論という点で、それはクワインなどとも響き合う……のかな(?)。

続くハートリー・フィールドについては、以前「唯名論」としてメルマガで取り上げたことがあるのでとりあえず割愛。その次に採録されているマーク・ステイナーの論もなかなか面白い。そこでは、物理的世界への数学の応用が、アナロジーにもとづいてなされることが論じられる。現代の物理学的な発見において、数学的アナロジーは不可欠な要素をなしているのではないか、というのだ。数学的アナロジーは、ときに物理的なベースを有することもあるというが(上のパットナムに通じるスタンスだ)、そのようなベースをもたない形式的なアナロジーもありうる、とステイナーは考える。そしてこの無基底な形式的アナロジーこそが、現代の物理学の発見の重要な要因をなしている、と主張する。ここで数学は純粋に唯名論的なものとされ、それがある意味偶有的に用いられることで、物理世界の発見が開かれるという仮説だ。ディラックの量子力学のほか、シュレディンガー、マックスウエルなどの理論が具体的な事例として挙げられ検討されているが、数学の抽象化された(唯名論的)対象が、物理世界に適用されるときの偶有性(なにしろ無基底なのだから)に焦点を当てているところがとても興味深い。ステイナーの議論では、上のパットナムとは逆に、数学の唯名論が物理学を引っ張って傾斜させている、というふうにも読める。その意味では拮抗する立場と言えるかもしれないが、いずれにしてもこれら唯名論と実在論の揺れ動きはそれ自体、微細な議論の空間を開いているようで興味は尽きない。