直観主義と論理主義 – 2

Philosophie Des Mathematiques: Ontologie, Verite, Fondements (Textes Cles De Philosophie Des Mathematiques)アンソロジー『数学の哲学ーー存在論、真理、基礎』(Philosophie des mathématiques: Ontologie, vérité, fondements (Textes clès de philosophie des mathématiques))の第三部は、論理主義と直観主義それぞれの陣営から、リチャード・ヘックJr「フレーゲの定理への導入」と、ミカエル・デトレフセン「ブラウワーの直観主義」の仏訳を採録している。でもまずはそれらの前に置かれた、編者らによる解説から見ていく。これは両テキストの位置付けを解説したもの。まずヘックの論考は、フレーゲの論理主義そのものというよりも、その後の「新論理主義」からフレーゲを見直したものと位置付けられるのだという。論理主義の肝は、入れ子状の量化を扱える論理学の構築と、ペアノの公理(とくにその数学的帰納法の原理)の論理性の担保にあるとされるのだけれど、フレーゲは前者を満たすことには成功したものの、後者は満たしていないとされる。それぞれの概念に外延がある、というフレーゲの仮定には矛盾があるとするラッセルのパラドクスがその点を突いている、というわけだ。で、「新論理主義」は、フレーゲが準拠するヒュームの原理(一対一対応)が論証されれば、フレーゲが持ち出す「外延」(extensioin)は不要になるとの考え方から、たとえばクリスピン・ライトは60年代に、フレーゲの二階論理ヒュームの原理から、外延や集合を参照せずに算術を導けることを論証しようとした。ここが起点となって、新論理主義は多方向に分岐していくのだという。

解説によると、上のヘックの論考は、そのライトの議論がどのような点でフレーゲから逸脱しているのかを示しているといい、また論理学的定義が数の解釈だけでなく、数の本質の説明をもなそうとしている点をも強調していると指摘する。算術がフレーゲの体系の中で解釈できるだけでなく、算術が論理学そのものにほかならないことを示そうとしている、ということのようだ。

他方、直観主義の流れはこうだ。まず発端として、20世紀初頭にツェルメロが、任意の関数について、空でないあらゆる部分集合はより小さな要素を許容するという構造があるということ(選択公理)を主張した。ここから、構築手段なしに成立する実体がありうるとの主張が出てくる。集合や関数、数といった、数学者の活動に自然に相関するものは、その相関する活動から分離させて、あたかも独立して存在するこかのように考察することができる、というわけだ。実在論、あるいはプラトン主義的とでもいうべき考え方だが、一方ではこうした立場を拒む人々も出てくる。数学的実体はすべて構築されるべきものだと説く、アンリ・ルベーグ(プレ直観主義者とされる)などだ。ポアンカレも、論争に加わりはしなかったものの、同じように考えていたという。オランダの数学者ブラウワーも同じく、論理主義や集合論を否定する立場を取った。ブラウワーは、数学的知識はすべて、非言語的な性質をもった心的な構築物であり、最終的にその基礎は時間に関する直観にもとづいていると主張した。言語は他者が立証できるようにするための指示でしかなく、数学的営為はすべて一人称での経験にほかならない、と。

上のデトレフセンの考察は、このブラウワーの考え方をより緻密に説き明かすものだとされる。ブラウワーの直観主義が、その継承者たちが作り上げた直観主義的論理とどう一線を画しているのかがその中心的論点となるようだ。というわけで、いよいよヘックとデトレフセンの論考をそれぞれ眺めていくことにする。(続く)