枠組みは現象しない

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)新しいプログラミング言語を学び始めるときに、まず慣例的に「Hello World!」という文字列をコンソールに表示するという作法がある。今でもこれを踏襲している人は少なくないと思うけれど(そうかな?)、個人的に、そのときの「ワールド」というのは何を、どこまでを指すのだろうか、と思ったことがある。マシンの電子信号の世界?その上のレベルのOSの環境、さらには言語環境?プログラミングのフレームワーク?まさか私たちもいるこの世界?いやいやそれはないなあ、みたいな。そんなことを思い出させてくれたのが、ドイツの新鋭マルクス・ガブリエルの著書。マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)』(清水一浩訳、講談社、2018)。ガブリエルはまだ30代の哲学の精鋭。ドイツでは本書を含む一般向けの哲学書を矢継ぎ早に出しているようで、本作の原書は2013年刊のベストセラー。仏訳なども割とすぐに出て、結構売れた模様だ。そんなわけでこれは、待望の邦訳でもある。

語り口が平坦で、取っつきやすいのは、メイヤスーなどの世代と同様の特徴かもしれない。内容はというと、中心となる議論はほぼ一つ。つまり、存在するものはすべてその都度の意味の場という枠の中に現象するしかない、というもの。意味の場とはその都度の特定のコンテキストのことで、それは随時シフトしたりもする。特定の時空間から人間の想像領域までをカバーしたりもする概念ではある。いずれにしても存在するものはそれらから逃れることはできず、またあらゆる意味の場をすべて包摂するような(メタな)意味の場、すなわち「世界」というものはありえない、ということになる。これが表題の意味。デリダなどが示していたような、コンテキストも含めた(広義の)テキストに外部は存在しないという話に通じている、というようなことをガブリエル自身も述べている。存在するとはなんらかの枠組みのうちに(あるいは器をともなって)現象することでしかないのなら、その何かが現象する当の枠組あるいは器は、それ自体知覚や認識の対象に据えられないし、そのものとして現象することもありえない。従来的な議論ならそこで止まりがちだが、ガブリエルはその枠の全体を問題にし、そうした全体が「存在しない」ということをワンチャンス的に論じていく。そこから、たとえばあらゆるものを科学(の枠)に還元しようとする科学主義・自然主義などへの批判が展開していくことになる。科学はすべてに答えを出しうるものではなく、あくまで科学が囲った枠組み(としての「宇宙」)の中でのみ、有効な答えを見いだすにすぎないのだ、と。

そのように世界は存在しないと割り切れたときから、個別の無数の存在はいっそう輝き出す……とするこの「新しい」実在論は、どこか可聴帯域の外にノイズが累積するハイレゾ音源よろしく、いわば「ハイレゾ存在論」のようなものに思えてくる(笑)。個別の存在に従来つきまとってきた虚無的なものを一気に周縁部に押しやって、個別の存在そのものを際立たせる試み、か。けれども少し荒っぽい印象も残らないでもない。そこに今後さらに洗練の度合いを高めていく可能性はあるのだろうか?