括りへの抵抗

哲学の“声”―デリダのオースティン批判論駁多少「今さら」感もなきにしもあらずだが、スタンリー・カヴェル『哲学の“声”―デリダのオースティン批判論駁』(中川雄一訳、春秋社、2008)を引っ張りだして読んでいる。邦訳では副題がついているが(少しミスリーディングな感じがする)、そのせいか出た当時はそれほど好意的な反応を見かけなかったように思う。個人的にも第一章を読んで、あまり乗れなかったため放置したままになっていたのだけれど、ちょっとしたきっかけでまた手にとり第二章を読み始めたら、これがなかなかに面白い。カヴェルはオースティンとデリダの両者にそれぞれ直に接する機会があったようで、そうした個人的な関わりなどから説き進めていく。一般的な哲学論っぽくない個人的・回想録的な読み物風スタイルが、やや違和感を抱かせもするけれど(実は原題は”A Pitch of Philosophy : Autobiographical Exercice”(哲学のピッチ:自叙伝的演習)となっていて、そうしたスタイルをちゃんと暗示している)、それがいつしかオースティンやデリダのテキストの解釈へと滑走していくところに、妙に誠実な議論展開が感じられる。

大上段の議論よりも、実体験に寄り添うかたちでの個別の関わり方を大事にするというこのカヴェルのスタンスは、ある意味安易な「括り」への抵抗のように読める。またそれは、カヴェルの眼を通して見たオースティンの基本スタンスとも重なり合う。カヴェルによれば、オースティンは当時の「実証主義」が唱える、言語についての型どおりの考え方に対して、個別の事例をもって反論しようとしたのだという(p.135)。それはまさに「括り」への抵抗だ。その意味では、既成の固定的価値を脱構築しようとするデリダにも、同じような「括り」に対する批判が見られるといい、オースティンとデリダはかくして相互に響き合うことになる。そもそもデリダはオースティンの仕事に「人間の声の根本的重要性を強調」(p.103)していたといい、デリダの議論はオースティンへの批判というよりも、応答を引きだそうとするものだった、とカヴェルは考えている。とはいえ、デリダは(オースティンが闘っていた当の)実証主義からも恩恵を得ていて、個別よりも普遍、個々人の行動よりもシステムが本源的だとする実証主義的な感受性が、脱構築の受容に大きな影響を与えていた、とカヴェルは指摘してもいる。オースティンが本来示していたとされる一般的なものへの拒絶は、それ自体がデリダによって一種捻れたかたちで一般論的に捉えられ、そうした一般化で排除されたものについての問いへと話が進んでいくのではないか、と。このあたり、もしかすると異論もありそうだが、いずれにせよ安易に括りに走らないことは、あらゆる学徒にとっての切実な戒めなのかもしれない。いつか必要になる括りは、いざというときのために取っておくべきなのかも……ということを、改めて感じさせられる。