カヴァイエスの直観論

主体の論理・概念の倫理 二〇世紀フランスのエピステモロジーとスピノザ主義スピノザの後世への影響についての諸論文を集めたものだろう、という軽い気持ちで手にとった論集主体の論理・概念の倫理 二〇世紀フランスのエピステモロジーとスピノザ主義』(上野修、米虫正巳、近藤和敬編、以文社、2017)。読み始めてみると、どんどん別世界のほうに引き込まれるかのようで、なんとも心地よいドライヴ感(笑)。冒頭はいきなり数学者ジャン・カヴァイエスが主役級の扱い。カヴァイエス(1903 – 44)は先のブラウワーよりもやや遅れてやって来た世代の人物。ブラウワーの直観主義の影響も受けているらしいのだが、もちろんそのまま継承しているわけではないようで、その直観論がどのようなものだったのか気になるところでもある。まず同書の第一章にあたる中村大介「一つの哲学的生成ーーブランシュヴィックからカヴァイエスへ」では、カヴァイエスの数学的エピステモロジーの基本として、数学の展開(多数の方法や操作のうちどれを拡張すれば問題が解けるか)は予見不可能ながら、その拡張すべき方法を捉えるところに、数学的直観が働くとされることが記されている。そうした展開には三つのプロセスがあるとされ(理念化、形式化、主題化)、いずれのプロセスも本質は概念を創り出すことにあるのだという。それは数学以外に依存しないという意味で、自律的であるとも言われる。こうした一連の考え方の下支えとなっているのが、スピノザが言うところの「思惟内容の必然性」なのだという。スピノザ的な主体と客体とがどこか混成的であるかのような論理が、カヴァイエスにあってはある意味刷新されているということか。

第二章にあたるウーリア・ベニス=シナスール「ジャン・カヴァイエスーー概念の哲学 その下部構造の諸要素」(近藤和敬訳)では、カヴァイエスが直観主義に賛同していたことが示されている。数学的理性にはある論理が備わっていて、それが厳密な形式主義を乗り越える、とカヴァイエスは考えていた、と。しかしながらそこでの直観は「主観性から切り離」されていて(論文著者によれば、これは哲学的な意味での革命的観念だとされる)、結果的にカントやフッサール、ブラウワーからも遠ざかっているのだという。「直観は対象の性質なのであって、主体の能力ではない」というのだ。概念は対象本来の自己だとされる。主体はいわば後景へと引っ込み、対象がもつ内容の運動を構築するだけのものとなる。そんなわけでカヴァイエスは、概念が現実的過程であるとするヘーゲルに近いというのだが、一方では、対象の主体化や実体の意識化をも斥け、対象そのものが主体とのつながりから独立して考察されるという点で、カヴァイエスはヘーゲルに対しても距離を置くのだという。そこで援用されるのはスピノザ的な「観念:なのではないか、というのがどうやらこの論考の肝の部分らしい。そのあたりの吟味はすぐにはできないし、多少とも読み込みにくい論考ではあるけれど、カヴァイエスが唱えるのは、結果的にヘーゲルよりもさらに厳格な客観主義なのだというあたり、とても惹かれるものがあるのも確か。