雑感 – 詩と哲学

パターソン(字幕版)先日、ジム・ジャームッシュの映画『パターソン』(2016)を観た。田舎町でバスの運転手をしながら、黙々と詩作に励む主人公(アダム・ドライバー)の一週間の日常を、淡々と描いた秀作。それほど起伏はないものの、詩を通しての出会いなど小さな事件はあって、主人公の詩の朗読がオフの声で散りばめられ、全体的に深い情感を喚起する。当人にとってはあくまで趣味での詩。けれどもそこには強い思いが込められ、また詩を通して他者へのリスペクト、先人の詩人たちへのリスペクトに満ちあふれ、趣味というものがまさしく生きる糧であることが、ある意味赤裸々に描かれる。詩という言葉の芸術が、こう言ってしまってはやや安易ではあるけれども、私的な哲学的考察に近接していくものであることを改めて想わせてくれる……。

現代詩手帖 2018年 03 月号 [雑誌]……と、そんなこともあって、『現代詩手帖 2018年 03 月号 [雑誌]』が「詩と哲学」の特集を組んでいるというので、早速見てみる。あまり大きな規模の特集ではないけれど、さしあたり星野太&佐藤雄一の対談が、やはり詩人たち・批評家たちへのリスペクトにあふれていて白眉だといえる。最近の比較的若い著名な研究者たちの文体が、飾りをそぎ落としたものになっていることについて、それを突き詰めていくと「霞ヶ関文学」にいたるとか(そこにはまた詩的エロスに転じる可能性もあるというのが……)、トランプの一見乱暴なツィートに崇高な修辞学の悪しき帰結が見られるとかの指摘は、ある種の変化球のようでずっしりと響いてくる。詩作において必須となる超越性の担保の話なども興味深いが、そこから詩壇・競い合いのような関係性の必要性に話がいってしまうのも、これまた少し考えさせられる……。