抵抗する身体の話

もはや書けなかった男今週はフランソワ・マトゥロン『もはや書けなかった男』(市川良彦訳、航思社、2018)を読了。著者はアルチュセールの研究者。その著者が卒倒を患い、後遺症との闘病のなかで綴っていったテキストを、著者の友人でもある訳者が邦訳したという一冊。回復と悪化の一進一退を赤裸々に綴っている。とくに本人の意志と関係なく排便を繰り返してしまう身体が、なにか底知れない不気味さ(前にも取り上げた西欧的な恐れの感情か)を漂わせながらも、客観視されているのが眼を惹く。日に複数回の、意図しない排便。「わざとやっているのか」とキレる世話をする立場の長女。失禁するかもという不安、言い知れない予感めいた恐怖……。認知症患者の親の介護をやっていると、排便に関して似たような状況がときおり唐突にやって来るが、その際には親もまた、そうした失禁の恐怖や身体に裏切られる感覚を味わっているのだろうか、などと卑近な例でつい考えてしまう。

テキストの全体は、ほかにアルチュセールに関する発表の中味をめぐる思考の動きや、書かれたテキストを友人らに送った際のその友人らの反応などが随所に挿入される。断章的に編集されて時系列も飛び飛びになっているようだが、それらがまた、テキスト全体に独特の詩的ともいえる余韻を残してもいる。ここで語られているのは、老いや裏切る身体といった、ある意味普遍的なテーマでもあり、老境に差し掛かった人ならば誰もが想定しうる状況の断片と言えるかもしれない。そんなわけで若い人はピンと来ないかもしれないけれど、これはとても切実で悲痛な、それでいてどこかオプティミスティックなもの、希望の断片のようなものをも含み持った誠実なテキストであると思われる。というか、そういう入り方ができるだけ、自分も歳を取ってきたのだなあと、痛感させられる。