確率と現実のあいだ

実在とは何か マヨラナの失踪 (講談社選書メチエ)

この夏に読んだフランクリン『蓋然性の探究』の余波が個人的には予想以上に長く続いている感じがする。確率計算のような最適解のいわば理想世界と、この上なく不規則な現実・実在とのすき間・落差について、改めて考えている。そんな中、次の一冊もまさにそういう問題系を扱っている。ジョルジョ・アガンベン『実在とは何か マヨラナの失踪 (講談社選書メチエ)』(上村忠男訳、講談社メティエ、2018)。体裁的にもちょっと面白い一冊で、1938年に失踪したイタリアの物理学者マヨラナについて、その失踪に哲学的にアプローチしてみせたアガンベンの論考と、そのマヨラナが物理と社会学とにまたがる統計的法則について批判的に論じた論文、そしてそこで言及される16世紀のカルダーノ(賭博好きだったそうな)のゲームに関する確率論を採録している。アガンベンの挑戦的な議論は、量子力学への確率論的な立場の導入について、当時の批判的な文脈を掘り起こし(哲学者のシモーヌ・ヴェイユがそういう批判を展開していたことを、個人的には寡聞にして知らなかった)、そうした文脈の歴史的起源(パスカルから、さらにはカルダーノにまで遡る)を示してみせ、マヨラナの失踪がその延長線上にあるのではないかとの大胆な仮説(!)を提示してみせる。刺激的な読解ではあるが、確率論を奉じる人々からすれば、おそらくは意味不明な議論と見なされるかもしれない嫌いはある……。

卑近な例で恐縮だが、最近とある私的な小さなSNSで、オスプレイの「落ちやすさ」は確率論的には通常のヘリなどと変わらないという主張と、それが上空をいつも飛んでいて恐怖を覚えるという主張とがぶつかって、あわや炎上かという事態を目にした(結局そうはならなかったのだが)。また、機械学習の手慰み的に、過去のデータを学習させて明日の株価などを予測するという行為が、さして成果を挙げられないという話もネット上では散見される。これらなども、確率的世界と実在的世界との間隙をかなりあざやかに示している。確率論はあくまで可能的な状態の出来事に関わるものだが、一方でそれはすぐさま実在の領域に重ね合わせられる。確率論は構造として、そうした実在領域での判断を、たとえそれが誤謬推理であってもとにかく可能にし、意思決定になんらかの影響を与えうるものとなっている。けれどもそうした確率論は、実在の領域そのものを捉えることはできず(散らばる実データと、たとえば二乗平均の平方根の直線を見てみればよい)、実在領域に合致したとしてもそれは偶然でしかないことは、もとより忘れられてはならない。人工灯で照らされているような印象であっても、その先が真っ暗であることは明らかだ。では、そうであるならば、再度翻って、実在へのアプローチの可能性はどこにあるのだろうか。マヨラナの失踪が突きつけるのは、そんな問いかけなのだ、とアガンベンは語っている。