感覚に依らない美の感受?

Traite 31 Sur La Beaute Intelligible (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)前回取り上げたプロティノスの『第31論文』(Traite 31 Sur La Beaute Intelligible (Bibliotheque Des Textes Philosophiques))。ここで問われているのは、知性にとっての美や知解対象の美というものをどう考えればよいかという問題。当然ながらそれは感覚的な美ではなく、狭い意味での「見る」「聞く」といった感覚にもとづく美的な感性では太刀打ちできない。そもそもそうした知的な「美」とは何かといえば、プロティノスによると、どうやらそれは調和の取れた、組織立った(秩序立った)全体のことだとされているようだ。つまりそれはコスモス(宇宙)そのもの、世界そのものだということになる。そうした全体こそが知的に言うところの「美」そのものであるとするなら、それを感覚に依らずに味わう・捉えるとはどういうことなのだろうか。プロティノスは、そのような美を知るには、みずからがその全体に合一する以外にない、とする。みずからがその秩序・組織に与すること。感覚器官ではなく、全身・全体でその美に合一する、というわけだ。はき違えてはならないのは、その美はコスモスとイコールである以上、この上なく壮麗なもの、一点の曇りもない完全性だということ。神との一体性、と言ってもよい。全体とはまさに無限の総体であって、地上に現に存在するような、どこか不完全さをもつ諸「事物」の美などではない。合一的な思想はどこか危ういとか言われるけれども、それは一つには、そうした不完全さをもつ現実的事象を、無限の全体と取り違えてしまうからなのだろう。弊害はまずもってその全体の「矮小化」にあるのではないか……。

それにしてもこの合一の思想は、人間以外の生物、とくに植物など特定の感覚器官をもたないものに、世界を認識・感受する可能性を開く考え方でもある。さきのマラブーもそうだが、今や哲学的な知は生物学と、あるいは動物行動学などと密接に関連せざるを得ないところにまできているようだ。けれどもその場合、どうしても動物ばかりが前面に出てきてしまう。それは考えてみればある種の偏りにほかならず、別様の生命のありかたを考慮に入れない偏狭さを感じさせる。そうした偏りを是正するという意味でも、プロティノスが語る「合一の思想」は、重要な足がかりになりそうに思われる。プロティノスをリブートさせる?それも面白いプロジェクトになるかもしれない。