空を見るということ

前回の続きになるが、再びインゴルド『ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学から。第二部にあたる大気についての試論がなかなか印象的だ。そこでとくに目を惹くのが、アフォーダンスの提唱者ギブソンと、現象学のメルロ=ポンティとの、空の知覚をめぐる想像上の対話だ。天空は、それを見る者にとって巨大な半球として現れるとギブソンは言い、そこに雲や天体などが浮かんでいるように見えるのだとする。しかしながら、そうすると、そこに含まれる視覚対象の事物の中に、光そのものが含まれないという問題が生じる。見えるものは光によって明らかにされたものであって、光そのものではない、とギブソンは主張する。けれども、では空は?空には「表面もない」のに、なぜそれを見ることができるのか?

ここで登場するのがメルロ=ポンティだ。天空の光自体は知覚の対象にならないが、空と光はそもそも同じものであって、空を見るとは内側から光を経験することだとメルロ=ポンティは言うだろう(と、インゴルドは述べる)。さらにまた、空の青さが見る者の意識を満たしていく、と。視覚は「わたし」を「わたし」自身から不在とし、一方で感覚対象をおのれの目の中で輝かせるのであり、知覚する側と知覚される側とが出会うとき、それは一種のスパークが生じているのだ、と。これはすぐさま、ゲーテの「もしも目が太陽のようでなければ、目は太陽を見ることができなかっただろう」という言葉に重ねられる。空に輝く太陽は、わたしたちの目からも輝いているのだ、というのだ。そして生物学者のユクスキュルもまた、同じようなことを言葉を変えて述べる。いずれにしてもここには、対象を自己と切り離さない知覚の在り方(おそらくは本来的な?)、主体と対象(あるいは環境世界)とがもとより混合しているかのような世界観が示唆される。