大気と植物と

La vie des plantes : Une métaphysique du mélange先日まで呼んでいたインゴルド本は、ある意味世界というものの混合状況、さらに言えば一元論的なものへの回帰と捉えることもできそうだ。で、これはインゴルドに限らず、ある種のパラダイムシフトとして進行しつつあるような印象をも受ける。たとえば、そうしたシフト感を強く訴えているものとして、エマヌエレ・コッチャの『植物生命論』(Emmanuele Coccia, La vie des plantes : Une métaphysique du mélange, Éditions Payot & Rivage, 2016)がある。以前アヴェロエス主義をめぐる著書が興味深かった同著者は、文献学的なものから哲学エッセイのほうへと重点を移しているように見える。伊語からの翻訳ではなく仏語で書かれたらしいこの著書は、植物というものが、動物全般の、ひいては人間の生を下支えしているのに、考察の対象としては限定的にしか取り上げられない状況から説き起こし、植物を核に据えた哲学的な考察をめぐらしたもの。その考察は、単に植物の生態などにはとうてい収まらない、あらゆるものが混合するという突き抜けた壮大な世界観にまで広がっていく。まさに上記のパラダイムシフト的な前衛、野心作という感じだ。

光合成が作り出す空気は、動物に呼吸を強いたわけだが、呼吸(あるいは大気)とはつまり、外にあるものが内に入り、内のものが外に出ることだと、著者は喝破する。つまりは生体と環境(知覚で言うなら主体と対象)とが、一続きで相互に入れ替えられうるものであることの証左である、と。知覚の問題も同様で、植物は感覚器官をもたないがゆえに、環境世界を全身でもって全体的に捉えている、あるいは環境世界の中にまさしく浸っている、とされる。その場合の浸りとは、上の呼吸をも包摂する、いわば世界との一致、相互浸透、混合のことにほかならない。世界は総じてそのようにできてはいまいか、というわけだ。こうして、先のインゴルドが人類学者ゆえにか踏みとどまっている、ある種の「弱まった人間中心主義」のような部分を、コッチャはやすやすと越えて、その先へと突き抜けようとする。もはや問題なのは人間ではない、宇宙であり、天体であり、コスモロジーなのだ、と言わんばかりに。哲学にコスモロジーを取り戻せ。それがこのマニフェスト的著作のスローガンでもある。