現象としての言語

言語存在論先週くらいから野間秀樹『言語存在論』(東京大学出版会、2018)を読んでいる。とはいえ、今週はあまり時間がとれず、まだ全体の三分の一ほど。まだ冒頭だけだが、一応まとめておくと、これは言語へのアプローチとして、現象するものとしての言語を扱うことを高らかに宣言しつつ、従来の様々な立場を批判していくというもののようだ。たとえば心理学的に示唆される「内的言語」(内面で「話されている」とされる言語)などは、現象するものではないことから、仮構でしかないとして一蹴される。

人文系の思想などにおいては、内的言語にかかわる問題や、言語的なコンテキストと非言語的なコンテキストとの混同などが絡んできて、話された言葉と書かれた言葉(それぞれ話し言葉や書き言葉とは異なるとされる)の区別すら混沌としていくといい、警戒感を募らせている。文字と意味の問題についても、人は文字を読むのではなく意味を読むのだと喝破し、文字に不変の意味が予め存在するのではないことを強調してみせる。書かれた言葉(それは文字が集まってできるものだ)は意味をもつのではなく、「意味になる」のだ、というのだ。意味が通じることを前提とする議論はすべて虚構の形而上学でしかない、と。また二項対立のような図式への安易な還元も拒み、現象としての多へと開くことを提唱している

現象的な面にこだわり抜くなら、大御所とされてきたソシュールその他の近現代の言語学の先人たちにも、学説の問い直しを迫ることができるのかもしれない。実際そういうかたちで、著者は各種の既定の概念を俎上に載せていく。このあたり、言語学の分野でも、以前とは異なる新たな問題設定、新たなアプローチ・構え方が到来してきていることを感じさせる。いうなれば、ここで称揚されるのはある種の生成の思想、多の思想ということか。先のバディウ本ではないけれど、「多の思想」は目下のキータームとして急浮上している感じがする。