ブリュノ・ラトゥール

現場主義?


 今週の始めに、ブリュノ・ラトゥールの訃報を目にしました。英語圏で名が知れていたせいもあって、「ブルーノ」表記のほうがいまだに一般的かとも思うのですが、最近はようやくブリュノ表記もそれなりに目にするようになりました。今やアクターズ・ネットワーク理論で有名なラトゥールですが、初期の構築主義的な科学論・科学技術論も、それらの政治性を、言葉は悪いですが、あけすけに論じるという、なかなかスリリングで興味深いものでした。もちろん、やや大げさで、断言口調の書きっぷりゆえに、ソーカル=ブリクモンあたりから、あるいは科学者たちから叩かれたりもしたわけですが、現場主義的なスタンスで、科学や技術が社会的に成立する場面・瞬間にまで降りていこうとする徹底ぶりは、とても面白く感じました。未邦訳ですが、頓挫した交通システムを文献など駆使して後追いしていく、『アラミス、あるいは技術への愛』(Aramis ou l'Amour des techniques, La Découverte, 1992)などはとても好きでしたね。

https://www.editionsladecouverte.fr/aramis_ou_l_amour_des_techniques-9782707121202

 その後のアクターズ・ネットワーク理論への萌芽というか布石というかも、随所に見られたように思われます。そのあたりの展開とか、あるいはラトゥール思想の総括とか、まとめてくれる人などもこれから出てくるでしょう。個人的にも読み返したい、大御所の一人です。合掌。

ミルの自由論

「今の話?」と思えるほどに


 古典を改めて読み直すシリーズ(勝手にやっていますが)。今回はやはりkindle unlimitedで、ジョン・ステュアート・ミルの『自由論』(光文社古典新訳文庫、斉藤悦則訳、2012)を読んでみました。

 ミルの自由論は、社会的に自由が制限されうるのはどんなときか、ということを考える、まさに基本・根幹の自由論です。他人の自由に抵触する場合のみ、というのが最初から示されます。穏健?いえいえ、結構とんがっていると思いますよ。変わった人がたくさんいないと、社会は活性化しない。だから皆さん、変わった人になりましょう、というのですからね!

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 原書は1859年刊。当時の世相を反映して書かれたものですが、権力の横暴の話など、なんだか「今と一緒じゃん」と思えるほど、身につまされる話が続きます。逆にいうと、世界が変わっていないことがしみじみとわかり、愕然とします。

 同書の最大の魅力は、そのなめらかでナチュラルな訳文にあります。巻末の訳者あとがきには、その訳出作業が「一行ごとに幸せ」に満ちていたこのだったことが述べられています。それはそのまま読者にも感じられます。生きる希望のための書をもう一度、という感じです。すばらしい。

テアイテトス

プロタゴラス批判など


 純粋に楽しみとしてプラトンを対訳で読んでいます。で、『テアイテトス』を読了。知識とは何かをめぐって、言葉のさらに下へと深く潜っていこうとする対話編(中期のもの)です。全体的に冗長な感じもありますが、読み進めていくとなかなか面白いです。希語版はLoeb、邦訳は光文社古典新訳文庫の渡辺邦夫訳(2019)。

 テアイテトスは数学に長けた若者として登場し、ソクラテスはある種老獪に、テアイテトスを導いていきます。ソクラテス言うところの「助産的なアプローチ」だというわけですね。

 前半はプロタゴラスなどの相対論、あるいは万物流動説が批判的に扱われています。個人的には、そちらのほうが思想史的に興味のある部分だったりもするので、少しソクラテス(というかプラトン)の図式的な見方に落ち着かない感じも抱きます。

 ハイライトは終盤の、知識をめぐるテアイテトスとのやりとりで、知識(知っていること)が感覚にもとづくものではなく、また真の考え(思惟)でも、考えにロゴス(説明規定)を加えたものでもないと、ソクラテスの問いかけに対するテアイテトスの答えが、どれも不十分であることを論じていきます。理知的に問いを深めていくことの困難さが、二重三重に積み重ねられていきます。

 最終的には、認識のはざまというか、なんらかの差異がおりなす、言葉に乗らないもの、というところにまで至ります。字母(アルファベット)への全体要素の還元の話など、なんだかわかったようでわかりきらない、もはや言葉で言いえない境地……という感じです。その先にはもはや「イデアの観照」のような、人間の不十分な知性を超えた、宗教的作用があるのみ、ということになるのでしょう。ソクラテス(=プラトン)のこの臨界点はとてつもなく大きな問題という気もするのですが……。

 対話相手の理知的で若い俊英、テアイテトスのなかには、これで何が残ったことになるのかな、とつい思ってしまいます。

ソル・フアナ

フェミニズムの黎明


 またまた光文社古典新訳文庫から、ソル・フアナ(フアナ=イネス・デ・ラ・クルス)『知への賛歌』(旦啓介訳、2007)を読了しました。17世紀のメキシコの女子修道会に在籍していたフアナの、韻文詩数編と、自伝的な書簡二通を収録した作品集です。

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文学、そして学問の才をもつことを自覚しつつ、周辺の人々が寄せる様々な世俗的感情(悪意など)に必死に抗いながら、そうした才を花開かせようと孤軍奮闘する姿が、目に浮かぶようです。神学的な知識の該博さもさることながら、女性が活躍することをなかなか認めない社会に向けて、なんらかの状況打破を希求しているところなど、まさにメキシコでのフェミニズムの嚆矢というふうです。これも読み応えのある、素晴らしい一冊です。

ネコひねり問題

壮大な科学史絵巻


 タイトルに惹かれて読んでみました。グレゴリー・j・グバー『「ネコひねり問題」を超一流の科学者たちが全力で考えてみた』(水谷淳訳、ダイヤモンド社、2021年)。軽い読み物なのかと思いきや、ネコの正常着地現象を題材に、主に初期近代から現代までの科学史を、力業的に引き寄せるという、読み応え十分の一冊でした。

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 なるほどネコひねりは、どういうメカニズムで成立しているのかよくわからないという現象なのですね。それを解き明かすために、さまざまな関連技術、学問的仮説の数々を史的にめぐっていきます。どこか「わしづかみ」という雰囲気を醸しています。写真術の発明、初期の物理学的考察、動物生理学の発展、はては現代科学、宇宙開発にまで話題が広がっていきます。なかなか壮大です。

 原題はFalling Felines and Fundamental Physics(落下するネコたちと基本物理)で、2019年刊。訳者のあとがきによれば、著者は物理学の教授で、光学迷彩などの研究者だそうです。初の一般向け著書なのだとか。筆致(翻訳の?)はとても軽妙で、ぐいぐい読ませますね。