「存在・カテゴリー・アナロギア」カテゴリーアーカイブ

『カテゴリー論』注解

ポルピュリオス話が続くけれど、ブログ『ヘルモゲネスを探して』で「命題集」の羅訳考が始まっている(拙訳にも言及していただいている(汗))。マッシモ・デラ・ローザ編訳の文庫本(本ブログでは一応これがベース)の配列は、ジルジェンティ編のフィチーノ版羅訳との対訳本が準拠しているというクロイツァー&モーザー本(1855年パリ:定本の一つ)の配列とは大分違っている。ちなみにこれまでの部分の対応を示しておくと、断章6までは同一、断章7はC&Mでは断章11、断章8はC&M断章13、断章9はC&M断章14、断章10はC&M断章24、断章11はC&M断章30、断章12はC&M断章19、断章13はC&M断章42、断章14はC&M断章20、断章15はC&M断章18。今後はそちらの番号も併記することとしよう。

さて、そんな中、昨年刊行されたポルピュリオス『アリストテレス「カテゴリー論」注解』希仏対訳本(“Commentaire aux Catégories d’Aristote”, trad. Richard Bodéüs, Vrin, 2008)を入手し読み始めているところ。これは個人的にも待望の一冊というところ。解説序文にもあるけれど、あくまで論理学的な側面を扱い、存在論的な部分に踏み込んでいかないところなど、『エイサゴーゲー』と同様にこれも入門編的な位置づけなのだという(確かに本文も『命題集』などとはずいぶん隔たりを感じさせる語り口だ)。ポルピュリオスにはもっと大部な別の『カテゴリー論注解』があったともいわれるが、残念ながらそれは現存していないという。けれどもいずれにせよ、『エイサゴーゲー』のまとめ方や、本書での対話形式などのスタイルなどからしても、何かこのあたりには「注解」に対するポルピュリオスの独自のアプローチのようなものが窺える感じがしなくもない。注解という形式の一種の「脱構築」とか(笑)?先のジルジェンティ本の末尾のほうでは、ホメロスの『オデュッセイア』の一部エピソードについての寓意的解釈だという『ニンフの洞窟』の話も出てくるけれど(オデュッセイアを魂の帰還の寓意と見立てる読みらしい)、そのあたりも含めて、ポルピュリオスの「注解」(ないし「解釈」)を包括的に捉えられないかしら、なんて思えてくる。

「存在する」は行為なり?

先のジルジェンティの『ポリュピュリオスの特徴的思想』も中盤を超えて佳境(?)にさしかかったところ。中盤では、「パルメニデス注解」の現存する断章をポルピュリオスのものと特定したピエール・アドの議論をベースに、思想内容からその確認をし、ここから「一と存在」「存在と存在者」「知性」「三幅対」などのテーマの詳述に入っていく。ちょっと面白いのは、「ポルピュリオスが西洋思想史の流れの分岐点に位置づけられる。というのも、哲学史上初めて、存在する(essere)という動詞が行為として概念化され、その純粋な行為が第一原因と同一視され、と同時にそれが一者と存在の漸進的同化を準備したのだ」というくだり(p.219)。actus essendiというときのactusを単純に「現実態」と訳すことへの違和感は以前にも記したことがあったけれど、やはりそこには行為というか働きというか、そういう動的な意味合いが入っていることを確認させてくれる一節。うーむ、現実態=行為としての存在論は、先日のマクシモスの存在論なども含め、はるか後裔にまで連綿と継承されていくようだけれど、その嚆矢はポルピュリオスにありということなのか?けれどもちょっとこのあたり、テキストでの検証が物足りない感じもするのだが……。

西田哲学

少し前からの続きという感じで、西田哲学についての比較的新しく入手しやすい参考文献(というか入門書・概説書)をずらずら眺めてみる。ベルクソンやドゥルーズとのパラレルな問題機制を取り上げた檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』(講談社現代新書、2005)は、西田哲学のキータームをめぐりながらタイトル通り「生命論」としての側面に光を当てている。初期の意識論的な議論から中期・後期の論理学的・トポス論的な議論への移行に、生命論的な側面が介在しているというふうに読める、ということか。これと対照的なのが、永井均『西田幾多郎–<絶対無>とは何か』(NHK出版、2006)。こちらはむしろ意識論の中核部分から言語哲学の面を拾い出し、その延長線上で絶対無などのタームを考えていこうとしている。こちらはヴィトゲンシュタインなどが引き合いに出されたり。どちらの本も現代的な問題圏からの読みということで、重なる部分も多いものの、置かれている力点の違いが西田哲学の「いろいろな読まれ方」を示唆していて興味深い。

で、そういう読みができるようになる土壌が整ったのは、やはり中村雄二郎の著書あってのことかと思われる。83年の『西田幾多郎』は岩波現代文庫で『西田幾多郎 I』となっているけれど、西田哲学の全体像のまとめや同時代的な言及(中江兆民とかまで)、その概説の批判的な冴えなどからしても、やはりこれがスタンダードな入門書かな、と。同書を見て、上の二書とも違う方向性に引っ張るとしたら、それは「媒介」論のほうではないかという気がした。媒介概念は結構重要な位置づけになっていると思うけれど、それを軸にして全体を見直す、みたいなことも可能ではないか、と。これは案外興味深いものになるかもしれないし。とりあえずは、87年の『西田哲学の脱構築』が『西田哲学 II』として同じ岩波現代文庫に入っているので、これも近々見てみることにしよう。

「三位一体」の問題圏

しばらく前から読んでいるアラン・ド・リベラ『主体の考古学』は、終盤にさしかかったところで別の仕事で慌ただしくなり一時中断、ようやく最近になって読了した。うーん、様々なテーゼを簡略な公式にまとめながら論を引っ張っていくという著書なので、一度読むペースが狂うと式の意味内容がおぼろげになってしまい、議論の流れに復帰するのに時間がかかる(苦笑)。ま、それはともかく、終盤はもうすっかりアウグスティヌスの問題圏という感じ。その魂論の核心部分では「愛や認識は知(記憶)のうちに、知がみずからのうちに存在するように存在する」とされ(つまり実体的に、しかも相互陥入的に存在するというわけか)、つまりは三位一体論の「相互内在性(περιχώρησις、circumincessio)」がベースになっているらしい。ちなみにペリコーレーシスという用語を最初に使ったのはダマスクスのヨアンネスで、ピサのブルグンデイオによるその翻訳に訳語としてcircumincessioが当てられ、中世においてはよく知られていたのだとか(ボナヴェントゥラなど、フランシスコ会がこの用語を駆使するようになるらしい)。もちろんその相互内在論にも長い歴史があるわけだけれど(エイレナイオス、ポワティエのヒラリウス、アジアンゾスのグレゴリオスなど)、それが中世にいたると、とりわけトマスなどを通じてアリストテレス的な主体概念と結びつき、思考の「主体=代理者」という図式ができていく(「魂はそれがみずからの作用をなすときにのみ主体となる」)のだという。

まだこれは1巻目で、主体成立の長い道筋の端緒についたところまでなのだけれど、改めて三位一体論というのは難しい問題を孕んでいるのだなあと思わせる。相互内在性の議論というのも今ひとつすっきりとは見えてこないのだけれど……同書で言及されている著者たちの議論をちょっと調べてみるのもいいかもしれない。いずれにしても少しド・リベラ節に目が眩んだ感じもするので(笑)、迂回路に入って少し気分を休めてから、昨年刊行された2巻目を読むことにしよう。

付帯性

フライベルクのディートリヒによる『存在するものの何性について』をようやく読了。前に挙げた『選集1』(“Dietrich de Freiberg – Oeuvres choisies”, Vrin, 2008)所収のもの。この論での一番のポイントは、なんといっても付帯性(=偶有)の扱い。ディートリヒは「何性」は形相でモノの定義に与る部分であるとし、一方の「付帯性」は形相ではなくあくまで実体に属する部分で、基体とは別様の定義に与るもの、というふうに区別している。トマスなどは付帯性もまた形相に位置づけていたと思うけれど、そこからするとこれは一見些細な、ごく小さな転換のようにも見える。とはいえ、どうもこの実体への位置づけ、後世からすれば「大きな」転換といえそうな気配もある(そのあたりはこれからちゃんと見ていかないといけないのだけれど)。


それにちょっとだけ関係する話。ちょうど何気なく読み始めた檜垣立哉『賭博/偶然の哲学』(河出書房新社、2008)の2章目で、九鬼周造が取り上げられていて、その『偶然性の問題』がドゥルーズの議論に重なってくるといった話になっている。紹介されている九鬼の偶然性の区分の一つに「定言的例外」というのがあるのだけれど、これが本質に対する例外(つまりは付帯性=偶有)の議論なのだそうで、九鬼はそこで、例外であるとは実在する個物のことだとしているのだという。付帯性が実在(実体)にあるという話が、そのまま唯名論的個に結びつくような格好だ。これには思わず唸る。なるほど、言われてみれば、付帯性を実体の側に位置づけることは個物のみの肯定という議論を導くことにもなるのかもしれない……九鬼おそるべし(笑)。九鬼の議論はもちろんこんなところにとどまったりはせず、「仮説的偶然」(異なる二系列が邂逅する偶然)、「離説的偶然」(様々な可能性の枝分かれから、現実にかくあるものが成立する偶然)と論を進め、最終的に刹那の時間論にまでいたるらしいのだが、先の西田もそうだけれど、こうした日本思想の先進性は個人的にもまったく見過ごしていたなと反省しきり。お恥ずかしい話、九鬼というと『「いき」の構造』くらいしか読んだことがない(それも大昔)。『偶然性の問題』はぜひ見ておかなくてはね。またこの檜垣氏という著者には西田幾多郎論もあるようなので、遅ればせながらそちらもぜひ見たいと思う。