「ナラティブ論」カテゴリーアーカイブ

マッキンタイア

サンデル本に出てきたマッキンタイアのナラティブ論。話には聞いていたものの、ちゃんと読んでみたくなって取り寄せてみた。アラスディア・マッキンタイア『美徳なき時代』(篠崎榮訳、みすず書房)。なるほど、これはバリバリの道徳哲学の本。諸徳が失われた近代において、なおも道徳哲学をどう語りうるかという問題設定。そこでのマッキンタイアのスタンスはとても明快で、「個人が同定・構成されるのは、その人のもつ役割のいくつかにおいて」であり、「そうした役割とは、人間に特有の諸善がその中で(…)達成されうる共同体に個人を結びつけている」という(p.211)。小規模の共同体への帰属が諸徳の前提であって、共同体が変わればその諸徳の性質も変わってくる。「あらゆる道徳哲学には、それに対応する何らかの特定の社会学がある」(p.276)というわけで、このあたりがコミュノタリズムと言われる所以か。そしてその帰属の靱帯をなすのが、ほかならぬ物語(ナラティブ)だということになる。マッキンタイアはこれを、古代の英雄譚や中世の諸テキストなどをめぐりながら説き起こしていく。とりわけ、アリストテレスを援用した中世の「アリストテレス主義」が体現する社会的変容に執心する(?)あたりには、ちょっと共感できたりもする(笑)。

でもナラティブ論としてはどうなんだろうなあ、と少し思う。共同体内の役割を個人が自分のものにするために物語(あるいは物語的秩序)があるのだという面ばかりが強調されていて、個人が物語の側に働きかけるとか、伝統そのものの変容の契機などの話は出てこないので、とても静的なモデルといった印象が強い……。もちろん、そこで語られる物語的秩序(ナラティブ・オーダー)は個人にとっての役割モデルだけにとどまらず、「人格の同一性とは、物語の統一性が要求する登場人物の統一性によって前提されている同一性に他ならない」(p.267)なんて踏み込んだ文言もあるのだけれど、それもまた主体構成的・行為論的な話とかではなく、あくまで事後的に眺めた認識論的な話にとどまっていて、ちょっと物足りない。また、「私の人生の物語は常に、私の同一性の源である諸共同体の物語の中に埋め込まれている」(p.271)として、複合的・重層的な埋め込みに言及している箇所もあるけれど、投影される共同体モデル相互の矛盾に引き裂かれる場合とかもあるし、フラットな「歴史同一性」などと簡単には言えないような気もするし……なんて。