corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 2 – 3

Les Belles Lettres版の解説では、このヘルメス選集(C. H)のXVIII章は、「王」(ディオクレティアヌスとその取り巻き)を讃える演説(300年ごろの)の寄せ集めだとされる。しかも実際に発話された演説だという確証もない、と。ヘルメスとその弟子たちのとの関係のない、いわば偽論文であって、C.Hに収録されたのは編纂者の無知によるのでは、とのこと。編纂者は何かこういう「無意味な戯文」に魅せられたのだろうという。

また、この第二節の欠落を含む部分は、音楽で「競い合う」(ἐναγωνίζεσθαι)という場合の、コンクールでのパフォーマンスの順番が反映されているのだとか。ラッパがまず最初に吹かれ、伝令の声、叙情詩の朗読、詩人による朗誦などが続いた後、笛の出番となり、次にキタラ(琴)演奏、そしてキタラの弾き語りが繰り広げられ、これが演奏のハイライトとなるという。

2. 音楽であたう限り競い合いたいと思う巧者にとって、まずはラッパ吹きがそのスキルを誇示しようとし、次いで笛吹きが叙情的な楽器でメロディの甘美さを味わわせ、葦笛やプレクトラムが歌の拍子を決め(……欠落……)、原因が帰される先は演奏者の息ではなく、より高次の存在でもないが、その者自身にはしかるべき敬意を払い、楽器については弱点を非難するのである。なぜならそれがこの上なき美を阻み、奏者の歌を妨げ、聴衆から甘美な調べを奪うからだ。

3. 同じように、私たちについて、肉体的な弱さがあるからといって、観衆の中に、私たち人類を冒瀆的に非難する者など一人もあってはならず、むしろ神が疲れを知らぬ気息であること、つねにみずからに固有の学知との繋がりをもち、途切れることなく幸福感に溢れ、つねに変わらないその善き行いをあらゆることに用いることを認識しなくてはならない。

普遍数学前史 – ルネサンス期

Mathesis universalis
再びダヴィッド・ラブーアンの著書(Mathesis universalis
)からメモ。ルネサンス期の「普遍数学」概念の受容と変遷についての部分だ。普遍数学なるものを掲げはしても、アリストテレスにはその対象をめぐる統一性に曖昧さが残るしかなかった。なにしろ普遍数学が扱うとされる数それ自体と、量(大きさ)との間(あるいは算術と幾何との間)にはなにがしかの乖離があるのだから。これに対するプロクロスの解決策はある意味とても奇抜だ。プロクロスはそこに「想像力」の「投影」を持ち込み、これによって数学に固有の対象の存在領域を策定しようとする。つまり一種の心理学的作用によって論理学と自然学の間に新たな対象領域を画定しようというのだ。そしてまさにこれはルネサンス期のプロクロスの再発見において、とくに注目を集める部分の一つとなったらしい。数学が媒介的な学問であることもこれで担保される。

ルネサンス期の「普遍数学」の言及も思いのほか少なく、代表的なのはベルギーのファン・ローメン(16世紀末)や、ドイツのヨハン・ハインリヒ・アルシュテット(17世紀初頭)などで、両人の参照元としてスペインのイエズス会士ベニート・ペレイラ(16世紀末から17世紀初頭)がいた。イエズス会の中では、教育典範の改正が進み数学を重視する動きが強まっていたとされる。ペレイラでは「共通数学」概念と、数学の「確かさ」の問題(数学が対象とする量がいわば「二種類」あることをめぐる議論)とが連動しているというのだけれど、これもさらに少し遡ると、16世紀半ばのアレッサンドロ・ピッコロミニに遡るらしい。ピッコロミニはプロクロスのテーゼ(数学の対象が想像力と一部結びついていて、それがある種の抽象化をなし、その抽象的性質が論証になんらかの可塑性を与える、というもの)をもとの文脈から切り離した形で前面に出す。ちょうど16世紀半ばにはプロクロスの再発見があり(ダシポディウス、ラメなど)、「普遍数学」の表記そのものはなくとも、プロクロスの文献はそうした各種の議論において頻繁に使われるようになったという。

ペレイラによって前景に押し出された数学の「確かさ」問題は、ピッコロミニやバロッツィ、さらにはラムス、ダシポディウスなども絡んだ議論の中心をなしていたといい、ほかにも算術を拡張した一般算術を唱える論者などや(マウロリコ:16世紀半ば)、アラブ世界に発する代数学をそうした一般学として提唱する者たち(16世紀後半のヴィエト、ステヴィンなど)もいて、算術と幾何学の接合をめぐる諸論はなにやら実に錯綜している印象だ。なかなかデカルトには行き着かないようだが、同書の著者ラブーアンは、デカルトへの導線は多数あり、そのうちのどれかを直接的な導線として特権化できるような要素はどこにも見当たらないと指摘している。数学の位置づけをめぐる遡及(アヴェロエス主義からロジャー・ベーコンにまで遡れるという)もそうだが、ルネサンス期の数学的議論の多様性もまた、まだまだ奥深い探求領域であるのだという。なるほどね。

普遍数学前史

Mathesis universalisダヴィッド・ラブーアン『普遍数学』(David Rabouin, Mathesis universalis, PUF, 2009)を読んでいるところ。とりあえずざっと前半のみ見てみたけれど、いろいろと興味深い。とりあえず大筋のエッセンスだけメモ。普遍数学(学問的序列の上位に位置するという考え方)はもちろんデカルト以降のものだけれど、一応その大元の発想はアリストテレスにあり、ルネサンス期にその概念の再発見がなされたという経緯がある(実際、たとえば中世盛期のゲントのヘンリクスあたりでは、数学は神学、形而上学、自然学の下に位置づけられていたりする。ルネサンス期のピコ・デラ・ミランドラでもそうみたい)。同書の前半は、アリストテレスの発想が結実しなかったのはどこに問題があったのか、またそれがどのように継承され、ルネサンス期の復興やデカルトにいたってそれをどう処理したのか、といった点を跡づけようといういう試み。アリストテレスにおいては、実は普遍数学への言及は二度ほどしかなく(『形而上学』のE1とK7)、その定義も問題含みで、まずもってそれが扱う対象が自然学の対象から明確に分離されていないという。というか、基本的に曖昧だとされる。たとえば数と大きさについて、アリストテレスはそれらを別個に扱うとしながら、一方では「大きさとは数である」といった言明も見られる(通約可能な大きさの比を扱う際など)。この立場は、曖昧さも含めてエウクレイデス『原論』に合致しているという。

その後、「普遍数学」は後世の新プラトン主義が受け継いでルネサンス期へと橋渡しする。けれどもその大きなモチーフとなったらしいのが、プラトンの対話篇(別人の作ではないかという説も当時から根強くあるようだが)『エピノミス』で、『原論』とは違う観点による数学の一体性の議論が見出されるという。そこでは数学は学知のほとんど最高位を占めるかのようで、コスモロジーにまで及ぶ範囲をカバーしているのだとか。要は数学的事象の一般理論の可能性を示唆しているというわけ(『エピノミス』は未読だけれど、俄然読んでみたくなった)。いずれにしてもアカデメイアでは、プロクロスにいたるころまで、そうした数学的位置づけが伝統としてあったらしい、と。

で、再びエウクレイデスを持ち出してそれと統合しようとするのがプロクロス(エウクレイデスへの注解)ということになるようなのだが、プロクロスは実に慎重に論を進めていて、数学が自然学との仲介役になるといった重要な観点を示しつつも、一般理論の提示にはなかなか至らない。アリストテレスにあった対象の設定問題がまたしても立ちふさがることになるようだ。で、ここから後半のルネサンス期の再考へと繋がっていく、ということになるようだ。

corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 1

Corpus Hermeticum: Traites XIII-XVIII - Asclepius (Collection Des Universites De France Serie Grecque)「ヘルメス文書集成」のとくに後半部分をLes Belles Lettres版(Corpus Hermeticum: Traites XIII-XVIII – Asclepius (Collection Des Universites De France Serie Grecque), A.D. Nock et A.-J. Festugière, Les Belles Lettres, 1946-2008)で読んでいる。ヘルメス選集のXIII「再生」からXVIIIまでと『アスクレピオス』を含む、この版の二巻目。再生概念とか太陽信仰の痕跡とか、いろいろなトピックが盛り込まれていて興味深いが、なかでもXVIII章が音楽の比喩で語られていて個人的には面白い。というわけで唐突ながらこれを、この夏の企画として訳出していこうかと思う。というわけで第一節から。XVIII章の表題は「身体のパトス(被り)がもたらす、魂の阻害について」(Περὶ τῆς ὑπὸ τοῦ πάθους τοῦ σώματος ἐμποδιζομένης ψυχῆς)。

1. あらゆる音楽のもととなる歌の協和を約束する人々にとって、もし発表の場で演奏中に楽器に不協和が生じ熱意を妨げることになったなら、その試みは滑稽なものでしかなくなるだろう。というのも、必要とされることに対して楽器が劣っている場合、音楽家は必ずや観客たちに嘲笑されてしまうだろうから。その者は飽くなき善意をもってその技術を身につけたのかもしれないが、楽器の欠点を非難されるのだ……。本来的に音楽家であり、歌の協和を実現するのみならず、個々の楽器にまで固有の旋律のリズムを送り込む者は、飽くことなき者、すなわち神である。神については飽くことなどないからだ。

科学的実在論

表現と介入: 科学哲学入門 (ちくま学芸文庫)文庫化されたイアン・ハッキング『表現と介入: 科学哲学入門 (ちくま学芸文庫)』(渡辺博訳)を読んでみた。科学史・科学哲学的な実在論をめぐる考察。副題に「科学哲学入門」とあるけれど、著者の該博さにいわば「翻弄される」ためか、それほど取っ掛かりがよいわけではない(とくに第一部)。どちらかといえば多少とも知識ある人向けの総論という感じか。科学が扱うものが実在的なものかそれともあくまで合理性の産物なのかという議論は長い歴史に彩られているわけだけれど、そのときどきの論争に関わってきた様々な教義をたどるのが「表現」と題された第一部。近・現代が中心だが、それらの議論にはどこか微妙な錯綜感もあり(クーン、ファイヤーアーベント、パトナムあたりは押さえておかないと話が見えてこないかも)、ときおり差し挟まれるハッキング本人の見解すら見失いやすい気がする。その見解というのは、理論に関する実在論と対象に関する実在論を分けて考えるというもの。前者については実在論を斥け、後者については実在論を擁護するというのが基本スタンスのようで、いずれにしても実在論で問題になるのは言葉や思考による表現以上に、世界への介入に関わることだと述べている(p.135)。ここから第二部の「介入」が導かれるわけなのだけれど、俄然面白くなるのはこの第二部。実験や観察という行為から、実在論の手触りを探っていくのだけれど、その手法は以前に見た『確率の出現』などにも通じるアプローチ。たとえばこんな話。最初は疑義も差し挟まれた「電子」は、いつから実在を疑われなくなったのか。ハッキングはこう答える。それが何か他のものを研究するのに用いられるようになったときだ、と(p.518)。仮説や推論上のものから脱するには、それが操作の対象にならなくてはならない(p.500)のだというわけだ。おお、これは慧眼。もしかすると、フィクショナルな非在の対象の哲学的考察にも応用できそう、などと妄想も膨らむ(笑)。