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「世界を失う」ということ

ミカエル・フッセル『世界の終わりの後で』(Michaël Fœssel, Après la fin du monde : Critique de la raison apocalyptique, Seuil, 2012)をつらつらと読んでみた。タイトルを見て、「一種の災害論?それとも預言論みたいなもの?」なんて勝手に予想していたのだけれど、実際にはもっと奥深い問題を扱っていて、ちょっとした好著という感じさえある。全体として問われているのは、「世界の喪失」体験は思想的な「近代」を成り立たせる構成要素をなしているのではないか、という問いだ。まず「系譜」と称される前半。ここで取り上げられているのは主に17世紀以降の近代で、その近代の成立や維持を実は「世界の喪失」体験が支えていたのではないか、その体験ゆえに練り上げられていたのではないか、といった話が展開する。もちろん17世紀と現代とでは「世界の喪失」も意味するところは相当違っている。かつてのそれは「コスモス」、つまり神に支えられた秩序の宇宙が失われる体験だった。終末論の批判というのは、不安定化した世界に直面した哲学にとっての危急の検案だった(参照されるのはホッブズ、カント……)。やがて終末論を遠ざけるのではなく、安定的基盤を失った新世界への失望から、再び終末論を招き入れるという動きへと転じる(ウェーバー)。その後、今度は「世界の終わり」を中和するのではなく、世界そのものを中和するのだという方向で、形而上学的な刷新が興る(ヘーゲル)。前半部の著者の見立てはこのように展開していく。

後半は「診断」と称される。現代世界になると、「世界の喪失」はさらに変容を遂げ、より細密化して人々の体験の中に組み込まれてしまっている。もはや失われる世界は「世界全体」ではなく、主体に依存するある「一つの世界」となり、しかもその世界が認識されるのは、まさにそれが失われるときでしかなくなる(『ショアー』の投げかける問題、ロッセリーニの映画、ドゥルーズのシネマ論……)。それでも人は「世界」を選び保持しようとする。ただしそこで、必ずしも世界の終わりと生命の消失が混同されてよいわけではない(エコロジー思想の諸問題)。そこで必要とされるのはむしろコスモスの復権、別様の世界の創出(アーレント)、新たな公共空間の確立だ……。カタストロフィズム(破局論)から、コスモスの政治学という文字通りの意味を込めてのコスモポリティズムへの転換へ……。著者の主張の輪郭線だけを辿るとそんな感じか。でも、現代世界の「世界の喪失」のイメジャリーである破局論を、ポジティブな意味づけへと転換するのはそう簡単ではなさそうにも見える。破局論はときに漠然とした気分の中でほのかに望まれたりもするし、そもそも日常のいたるところに蔓延し垢のように事象にへばりついているような気もする。そうしたものの核心へと迫るには、カント的な批判(著者が目するような)というより、むしろ現象学的なアプローチのほうに光明がありそうな……?

ヴェスコヴィーニ編著から:その他の論考

引き続き前回の『14世紀ヨーロッパにおける哲学、科学、占星術』(Filosofia, scienza e astrologia nel Trecento europeo. Biagio Pelacani Parmense)から、ほかの注目論考についても簡単なメモ。同論考には伊語のほか、仏語、英語論文などが混在している。で、まず注目どころは、リシャール・ルメー「トレチェントのイタリア人文主義の着想源としての反アラブ主義−−あるいはスコラ学的スタイルの拒否」(Richard Lemay, De l’antiarabisme – ou rejet du sytle scolastique – comme inspiration première de l’humanisme italien du Trecento)。これはまだ序説的なものにすぎないようなのだけれど、13世紀にアラブからの学問流入に沸いたヨーロッパは、その後14世紀になって独自文献を自前で産出できるようになると、よりおおもとのギリシア文献に目を向けるようになり、かくして人文主義が勃興し、結果的に反アラブのスタンスを取るようになったという流れを描き出そうとしている。ここではとりわけ占星術関係の文献に着目していて、アラブの(占星術系の)文献とその教えに関する13世紀初頭の紛糾(1210年のパリの禁令など)は、アルベルトゥス・マグヌスが『天文学の鑑』を刊行した1250年ごろを境に鎮静化していき、一方で1277年の禁令以降は反アラブ主義が頭をもたげ、たとえばそれはダンテの『神曲』などにも散見される……というのだけれど、その反アラブという捉え方はとくに定義も具体例も示されておらず、厳密に何をそう称しているのかちょっと不明。とはいえ、力点がシフトしていったことは確かだろうし、文化・学術史的にみたアラブ世界の比重の減衰はとても興味深い問題ではある。

もう一つ、ダニエル・ジャカール「14世紀前半のパリにおける医学と占星術」(Danielle Jacquart, Médecine et Astrologie à Paris dans la première moitié du XIVe siècle)は、医学と占星術の併用・融合が、時代と場所によって実に様々だったことを指摘しつつ、14世紀前半のパリに限定する形で、文献から両者の関係性を明らかにしようと健闘している。14世紀前半においては、占星術の医学的な活用を疑問視する者もいれば(ニコル・オレームなど)、それを大いに奨励する者もいて(一時パリに滞在していたアーバノのピエトロなど)、全体として大いに錯綜している感があるようなのだけれど、同論考では次のような興味深い指摘がなされている。つまり、当時の宮廷付きの医師というのがたいてい占星術師で(代表格はモーのジェオフロワ)、占星術に懐疑的なパリ大学の医学部の関係者はそこに入っていけず、両者はいわば互いに没交渉の二つの医学世界を作っていたらしいことだ。その状況はペスト禍が起きる1348年以降劇的に変化し、医学部出身者の間から宮廷付きの医師が徴用されるようになるという。うーん、このペスト禍前後の状況の変化などは、もっと詳しく知りたいところ。

パルマのブラシウス:光学のほうへ

少し古めの本だけれど、ヴェスコヴィーニ編『14世紀ヨーロッパにおける哲学、科学、占星術:パルマのブラシウス』(Filosofia, scienza e astrologia nel Trecento europeo. Biagio Pelacani Parmense, ed. G. Federici Vescovini, Il Poligrafo, 1992)という論集を見ている。これは小著ながら、錚々たるメンバーが執筆陣になっていて読み応えも十分だ。基本的に、編者ヴェスコヴィーニの業績の一つでもあるパルマのブラシウスの再発見を中心に、科学史的な観点で同時代(14世紀)の様々なトピックが綴られている。というわけで、まずはその編者による一本「パルマのブラシウス:近代黎明期における哲学、占星術、科学」を読んでみた。ということで以下はメモ。ブラシウスは基本的に世俗の学問の教師で(パドヴァ大学で数学を教えていたほか、パヴィア大学、ボローニャ大学でも教鞭を執っていた)、医学、光学、天文学(占星術)なども講じていたとされる。占星術はその当時、超自然的な現象を合理的に説明するための手段にもなっていて、いわば「自然学に宗教的な概観を与え」ていた。それを反映してか、ブラシウスの講じる占星術は数学・自然学的なものだったようで、天体などは神的なものとは見なされず、あくまで運動の計算対象、自然学的な対象と捉えられていたという。人間についても、ブラシウスはそもそも自然学的な本性と霊的な本性の区別を認めず、あくまで自然的なものとして捉えているのだそうで(医学的な発想が色濃く出ているということか)、「知性」にしてからが、天球の配置の影響のもとで質料の潜在性によって導かれたり引き抜かれたりしうるものと考えられていた。ここには、魂のような上位の霊的形相すら天空の影響によって質料から自然発生しうるのだという革新的な考え方があり、それが1396年の糾弾に繋がったのだという。

ブラシウスは、魂の不滅が合理的に論証できないとしたポンポナッツィの先駆とも見なされるけれど、それ以外の諸学(数学、自然学、光学)での功績も、とりわけ当時のフィレンツェの芸術家や学識者などに多大な影響を与えているという。とくに同論考で取り上げられているのが、後のルネサンス期の透視図法を導く空間の捉え方だ。透視図法は三次元の事物の形象を視覚的距離にもとづき配置するというやり方だけれど、ブラシウスは、人が見る対象物の大きさは目からの距離によって決定づけられているという心理=視覚的な考え方を、1380年から90年ごろにかけて練り上げているらしい。しかもそれは、芸術家たちなどからすぐに大きな反響をもって受け止められたという。さらにブラシウスは、人間の理性的活動はすべて視覚的操作を伴っているとして、知的霊魂は全面的に視覚的霊魂に帰着するといった考え方すら示しているのだとか。うーむ、これはまた凄いことになっていそう(笑)。個人的には霊魂論で注目していたブラシウスだけれど、このあたりの光学・数学の議論も面白そうだ。ぜひとも実際のテキストで見てみたい。

ビュリダンの霊魂論から

John Buridan: Portrait of a Fourteenth-Century Arts Master (Publications in Medieval Studies)ジャン・ビュリダン(14世紀)に関するジャック・ズプコの研究書(Jack Zupko, John Buridan: Portrait of a Fourteenth-Century Arts Master , University of Notre Dame Press, 2003)を飛び飛びに眺めているところ。とりあえず個人的には、心身問題というか霊魂論についてまとめられている11章にとりわけ興味が湧く。というわけで、その概説を簡単にまとめておこう。著者によるとビュリダンは基本的に動物・植物の魂と人間の魂とを分けて考え、前者は物質の集合体で生物学的機能で定義される延長的な力をもち、可滅的なものだとされている。対する後者は非物質的・不滅的・創造されたもので、数的には多であるとされる。ビュリダンにおいては、動物や植物の魂は身体全体に広がっており、各器官での分化については潜在性(可能態)の近接・遠隔という議論で説明されているという。つまりこういうことだ。動物における感覚的機能は特定の器官で発現しているわけだけれども、機能をもたらしている魂自体は全体に広がっているため、たとえば動物の任意の各部(足でもなんでも)に視覚や聴覚の「遠隔的な」可能性があるのだという。ただしその器官がそれらの機能を「近接的な」可能性へと高める配置になっていないため、発現しないのだというわけだ。また、動植物の魂というのは同一であり、植物的魂と感覚的魂の区別などは言葉の問題にすぎないと、いかにも唯名論的な立場を取ってもいる。このあたりもなかなか興味深い。

しかしながらもっと興味深いのはやはり人間霊魂に関する話。非物質的で分割不可能なもの(すなわち魂)が、物質的で分割可能なもの(すなわち肉体)に備わる・宿るとはどういうことか、それをビュリダンはどう考えているのか……。まず魂は肉体に、外接的(circumscriptive:境界画定的)にではなく、規定的(definitive:内充的)に宿るのだという。つまり「全体に全体が、部分に部分が」宿るのではなく、「全体に全体が、部分にも全体が」宿るというわけだ。しかしながら現実問題として、知性のような分割不可能なものが分割可能な基体にそのような形で宿ることは不可能だということにもなる。こうしてアヴェロエスは、知性の非物質的な部分は身体に宿ってはいないと結論づけることになった。一方のビュリダンはというと、知的魂を超越論的な実体とするアヴェロエス的な結論を斥け、知性的魂はあくまで人間の身体に、全体が部分に宿るという形で宿るのだという立場にこだわり続ける。上の規定的・内充的な内在は非通約的・無理的(non-commensurable)な関係とも言い換えられている。ビュリダンは当然ながら様々な異論への論理学的な反論も用意してはいる。ただ、そこから先の具体的説明を、ビュリダンは神学の側へと差し戻してしまう。非通約的・無理的な内在は、自然学が論証的に説明しうることではないとして、それを神の奇跡に帰着させてしまうのだ。哲学者としての降伏?いやいや、少なくともこの著者は、ビュリダンの「説明放棄」は限定的なものだとして、アウグスティヌスが奇跡について述べた言葉を挙げている。いわく「奇跡的な事象は自然に反して起きるのではなく、自然について知られていることに反して起きるのである」。無理的な内在は自然に反するのではなく、限界とされているのはあくまでそれを自然学の論述で証すことなのだ、と……。

ガレノスとプラトン主義の結節点?

ちょっと古典的な趣きすら感じられる、でもなかなか興味深い1976年の論考を読む。セオドア・トレーシー「プラトン、ガレノス、および意識の中心」(Theodore J. Tracy, Plato, Galen, and the Center of Consciousness, Illinois Classical Studies vol. 1, 1976)(PDFはこちら)というもの。ガレノスが『ティマイオス』の注解を著したりして、プラトン主義に馴染んでいたことはよく知られている。でも論文著者によれば、『ティマイオス』にプラトンが取り込んでいた当時の解剖学・生理学・心理学・病理学などの知見は、その後の医学的権威たちによって真剣に受け止められ、かくしてプラトンはアリストテレスを通じて間接的に学術的伝統に影響を及ぼしていただけでなく、医学の専門家たちからはその筋の権威として崇められていたことが見出されるのだという。で、ガレノスもそういう一人だったとされる。ガレノスは著書の随所で、プラトンをそういう権威として引き合いに出しているという。ではなぜガレノスは、アリストテレスやその他のギリシア・ローマの権威を差し置いて、プラトンを選んでいるのかという疑問がわく。その一つの契機として、ガレノスの神経解剖学的関心と、「意識の中心」がどこかという当時決着のついていなかった問題があったのではないか、というのが同論考の中心的な仮説だ。

知的活動の局所問題について、同論考は略史を示してくれている。思考や感情がどこに宿るのかというのは古来からの大きな問題だった。紀元前5世紀のクロトンのアルクマイオン(初の人体解剖をしたとされるピュタゴラス派の解剖学者)はそれを脳に位置づけていたが、その後の世代にあたるエンペドクレスなどは、思考や感情を心臓の周りの血に関連づけていた。ヒポクラテスは脳が意識や知性の中心だと主張していたが、文献的にはやや曖昧なところもあったりするようだ。で、プラトンだけれど、そちらも理性的魂を脳に位置づけている。ところがアリストテレスにいたると、生命原理を心臓に一元的に求めるようになる。アリストテレスの同時代の医者だったディオクレス(アテネで第二のヒポクラテスと呼ばれていた人物)とその弟子筋も心臓説を採用し、さらにはストア派やエピクロス派がその説を採用するにいたって、心臓説は広く人口に膾炙するようになった。一方の脳中心説はどうなったかというと、アリストテレスの死後半世紀たったころ(紀元前3世紀前半)、ヘロフィロス(神経解剖学を進展させた医者)とその弟子などが脳中心説を擁護したりもするのだけれど、結局それはガレノスの時代の直前まで、約300年の長きにわたり進展もなく、ひたすら無視され続けることになる。ガレノスは独自に解剖学の研究を重ね、思考が脳に依存していることを訴えてストア派や逍遙学派に対抗する立場を取るようになる。ガレノスはこうして、いわばごく自然にプラトンへと接近し、プラトンの立場を擁護するようになったのではないかというわけだが、そうはいってもガレノスの生涯とプラトン主義の関わりは不明瞭なままで、そのあたりはやはり難しい問題なのだなということが改めて窺える。