「存在・カテゴリー・アナロギア」カテゴリーアーカイブ

主体の考古学

先の『空虚な参照』に続き、アラン・ド・リベラの『主体の考古学1–主体の誕生』(Alain de Libera, “Archéologie du sujet I — Naissance du sujet”, Vrin, 2007)を読み始める。すでに2巻目も昨秋刊行されているし、まだ続くようで、近年のド・リベラ哲学の主著ということになるのかしら。古代にはなかった「主体概念」が、中世のたとえばアヴェロエスの「思考するのは知性だ」といった議論を経て、いかにデカルトに着地することになるのかを追うというなかなか壮大な試み。まだやっと1巻の4分1(第一章の途中)まで眼を通したところだけれど、前著よりもとっつきやすいというか、なかなか読ませるものがある。第一章は全体の問題提起だけれど、大きなポイントは「付与的主体」と「内在的主体」という図式的対立とその転換を、どのように整理するかということにあるようだ。これに「呼称の主体」「行為の主体」といった区分が絡んで四つ巴になるらしい。すでにしてアウグスティヌスの立場(人間の魂に「主体」といった概念を適用するのは冒瀆的であるとした)や、トマスの議論(感覚的操作の「原理」としての魂と、操作の「主体」としての身体=魂の複合体)が、近代的意味での主体からほど遠いことが強調されたりもしている。ふむふむ、具体的な展開が実に楽しみ(笑)。

アフロディシアスのアレクサンドロス再び

昨秋に老舗のVrinから刊行されていた希仏対訳本でのアフロディシアスのアレクサンドロス『霊魂論』(Alexandre d’Aphrodisem “De l’Âme”, trad. Bergeron et Dufour, Vrin, 2008)を入手。さっそく読み始める。これは以前希伊対訳本で出ていたMantissa(De anima II)とは別物。アラン・ド・リベラなどが指摘している「唯名論のはるか源流」としてのアレクサンドロス像というのは、たとえばMantissaだけだとよく見えてこない(むろん『Questiones』も参照しないといけないのだけれど)。対するこちらは、冒頭の数ページのところで、すでに「思惟」と実在との区別を想わせる文面とかが出てくる。アレクサンドロスは質料と形相は分離しえないということを強調し、それらを分離するのはあくまでエピノイアとロゴスによってでしかないとし、物体が非物体から生成するなどという議論(これは一つのアポリアだけれど)、あくまでそうしたエピノイアとロゴス上の議論でしかないと斥ける。うん、これはすでにしてなかなかに面白そう。この思惟と実在の区別などに留意しながらしばらく眺めていきたいところ。

命題の理論?

アラン・ド・リベラの『空虚な参照–命題の理論』Alain de Libera, “La référence vide – Théories de la proposition”, PUF, 2002)を読み始めているところ。例の分析哲学系のトロープス理論(個物として諸属性のみの実在を認めるというもの)との絡みでアベラールを論じている箇所を先に見ていたら(なるほど分析哲学系の人たちがアベラールをトロープス理論の先駆として読み直しているという動きがあるわけね……ド・リベラはそれに違和感を表明している)、いろいろ略語とか同書内部でのお約束ごとがあるため、結局頭に戻って読み進めるしかないということになり、そんなわけでまだ全体像が今ひとつ見えないのだけれど、最初の方の章を導いているのはフレーゲの「第三の王国」の話(意味というものが、叡智界に独立して存在するという立場)で、その源流を中世の論理学・存在論に考古学的に探ろうということらしい。12世紀の逸名著者による「アルス・メリドゥーナ(Ars Meliduna)」などが取り上げられている。6回の講演をもとにしたものということだけれど、普遍論争の源流を探っていく前の『一般性の技法』に続く感じだ。さらに最近の『主体の考古学』(2巻目が昨年出た)にもつながる話のようだし、ちょっとしばらく読み進める予定。

フライベルクのディートリヒ

とりわけ昨年くらいから、いくつかの書籍で取り上げられているのを目にしていたフライベルクのディートリッヒ。先のアラン・ド・リベラ還暦論集の最後にも、存在と本質の区別を実在論的に論じるトマスなどの議論を唯名論的な立場から批判する批判者として取り上げた論考が収録されていた。そのうちぜひテキストを読みたいと思っていたところ、昨秋Vrinから羅仏の対訳本で『著作選第一集』(右の画像を参照)(Dietrich de Freiberg, “Oeuvres choisies”, Vrin 2008)が刊行されていたことを知り、早速取り寄せてみた。収録されているのは「偶有について(De accidentibus)」と「存在者のこのもの性について(De quiditatibus entium)」の二本。前者を読み始めたところだけれど、すでにしてなにやら面白そうな流れ。偶有的な属性をもたらす原理が基体の外部にあるとする説を批判するもののよう。属性に関する議論は聖体の実体変化の教義(1215年の第4回ラテラノ公会議、1274年のリヨン公会議)に抵触する微妙なもの。序文の解説によると、ディートリヒはその通説に意を唱え、まさに孤高の歩みへと進んでいくのだとか。うーん、いいねえ。少し伝記的な部分も大まかにさらっておかないと(笑)。

偶有的属性についての論集:その2(脱力編)

これまた年越し本になる、先に挙げた『実体を補完するもの』からさらなるメモ。メソッド的に正攻法を取る論考も確かにあって、たとえばリチャード・クロスの論考は、トマスの「作用は基体に属する(actiones sunt suppositorum)」というテーゼ(力が外部から付与されるというもの)について、ガンのヘンリクスやドゥンス・スコトゥスの異論(形相に力が内在する)を対比的にまとめたりしているのだけれど、それよりもひときわ目立つ(悪い意味で?)感じがするのは、とてもアナクロな対比論だったりする。それはつまり、現代的な分析哲学系の議論で論じられる「トロープ」概念との対比で、中世の唯名論を見ようというもの。うーん、これはちょっと面食らうというか。ちなみにトロープというのはドナルド・ウィリアムズが提唱したもので、世界の構成要素となる具体的な属性のこと。

ジョン・マレンボンの論考「アベラールはトロープ理論家だったか」は、アベラールが用いる属性概念をトロープの見地から検証しようというもの。それによると、アベラールの場合、偶有や種差の考え方が現代的な弱く推移可能なトロープと考え方とほぼ等しく、その存在論的カテゴリーは、内的に個体化されている基体と、基体に付随する形でのみ存在しうる、やはり個体化されている形相とに分かれるのではないか、という。だからアベラールはトロープ理論に近いものを考えていた可能性がある、という議論だ。うーん、それはどうかしらねえ……どうやらこれは、トロープ理論で中世を括る懐疑的なアラン・ド・リベラの立場への反論らしいのだが……。

クロード・パナッチョの「オッカムの存在論とトロープの理論」は、上のウィリアムズともまた違うらしいケイス・キャンペルのトロープ論と、オッカム思想の対比とを試みるというものなのだけれど、キャンベルの思想は、基体などというものはなくトロープのみが存在するという極端な立場(トロープ一元論)で、オッカムはというと当然本質的部分と偶有的部分を分ける二元論に立脚していて、この点が大きな違いなのだけれども他の方向性は大体一致しているのだという。これってひどく凡庸な論調……とか思っていたら、最後のほうで、オッカムの立場からの逆照射でトロープ論の問題を再考しようみたいな話になっていて、なんだオッカムはダシに使われただけか、ということがわかり思いっきり脱力する(苦笑)。こういうのを読むと、対比論的な議論のもっていき方の注意点が改めてわかるというもの。ま、それはともかく、トロープ論との対比論が出てきたきっかけはやはりド・リベラにあるらしいので、ちょっとそのあたりも見ておきたいところではある。