「象徴史・物質論など」カテゴリーアーカイブ

数学史へのプレリュード……

すでに先月号だけれど、久々に『現代思想』誌を購入。特集は「<数>の思考」。とりわけ数学史がらみの論考が、期待に違わず面白い。斎藤憲「エウクレイデス『原論』の整数論」は、同書が比例論を整数論に持ち込む試みだったのではないか、という着眼点で論を進める。三浦伸夫「中世西欧における数概念の拡張」は、14世紀イタリアの算法教師たちによる三次方程式の解法をめぐりつつ、すでに当時、分数や負の数、ゼロ数、さらには無理数などへと数が拡張されて、普通に使われていた様子をまとめている。但馬亨「数・量概念の変遷と近代数学の発展」は、さらに後の16世紀以降の、高次方程式ほかの展開を追うというもの。とりあえずこのあたりに目を通す。普段接することのない数学史だけに、なにやらとても新鮮かつ刺激的。エウクレイデス(ユークリッドですね)のテキストや、その西欧での普及史なども押さえておきたいところだなあ、と。

色彩の不可思議

夕方ちょっと新宿へ。南口のサザンテラスはすでにクリスマスイリュミネーション。昔と違うのは、有機LEDになって発色がかなり「原色」っぽくなったことか。そのため視覚的な表現も以前に比べて凝ったものになっている気がする。電気の消費量も少なくて済むというし、いいことずくめ……なのか?

それにしてもこの青の発色はなかなか映える。このところアリストテレスの小品「色彩論(περί χρωμάτων」を読んでいたのだけれど、白と黒を両端として、その間に混合の濃淡をベースにした発想で様々な色が並ぶのがなかなか面白い。青とかとりわけ紫などは黒に近い色という感じで捉えられている。先のパストゥロー本によると、このアリストテレス説は12世紀に再発見されたのち、17世紀まで命脈を保つのだという。面白いのは、同じ青でも、「濃くて輝きのある青は、褪せてくすんだ青よりも、やはり濃くて輝きのある赤や黄や緑の方に近いものとしばしば知覚されている」(p.129)という点。色そのものよりは濃淡の方に分別の比重が置かれていた、というわけか。色一つとってみても、ずいぶんと捉え方が違ったらしいことが興味深い。パストゥローはそういう意味において、絵画修復などの色彩の再現にも微妙な批判を加えているし、彫刻にしても、当時はなんらかの色が付いているのが普通だったとし、現存するものが色がないからといってもとから無色だったと了解しては間違いになる、ということも指摘している。色彩や視覚については、スコラ的な理論も興味深いが、こういう現象としての歴史も負けず劣らず興味深い。

論争の書

春に刊行されて、フランスでは「イデオロギー的だ」との批判が噴出したシルヴァン・グーゲンハイム『モン・サン=ミッシェルのアリストテレス』(Sylvain Gouguenheim, “Aristote au Mont Saint-Michel – les racines grecques de l’Europe chrétienne”, Seuil, 2008)を、とりあえずどんなものか読んでみる。ローマ帝国の崩壊とともにヨーロッパではいったんギリシア思想などの古典的な知が失われ、はるか後に、アラブで温存されていたそうした知が翻訳を通じて再び流入したという、昨今では広範に共有された定説に、事態はそう簡単ではないと異を唱える一冊。前半は割と穏やかなトーン。帝国崩壊後のヨーロッパで、古典的知は決して失われてはおらず、細々とでも温存され、とくにビザンツから逃れてきた知識人たちがそうした知の普及に与っていたのだとし、またシリアなどの東方での翻訳にはキリスト教徒が大きく貢献していたということを指摘している。全体として、知の普及の見取り図として12世紀ごろまでの様々な神学者らの名前も挙がるのだけれど、個別にはいくつか誤りもあるようだし、またちょっと強引な論の進め方もあるし(たとえば、サレルノの医学的伝統などが引き合いに出されていて、これはアラブ=イスラム世界とは関係がないとか書かれているけれど、そんなことはないわけで(苦笑))、断定するような物言いに限って注釈がついていなかったりもする(出典が明らかでない)。前半の最後には、表題にもなっている、モン・サン=ミッシェルでのヴェネツィアのジャンなる人物がなしたというアリストテレス全訳が取り上げられるのだけれど、この人物なども実際には詳しいことはわかっていないらしいのだが、著者の議論ではある特定の論文が再三引かれ、それにかなり依存したものであることがわかる。著者はそのジャンの訳がアルベルトゥスやトマスにも使われているなんて言っているけれど、この辺もかなり怪しそう(?)。

でもま、少なくともこの前半からは、ビザンツと西欧各地の交流史や、シリアでの文化活動の詳細など、一般の中世史研究ではあまりお目にかからない部分のアプローチも必要だということを改めて感じさせる。また、アリストテレスの旧訳の普及というあまり光の当たっていない部分も思い起こさせる。そういうところもある程度固めないと、怪しい議論の席巻を許してしまうことにもなりかねない……とまあ、中世史研究の全体的な間隙というのを指摘している点だけは、案外有益かもしれないなあと。ところが後半になると、そもそもイスラムはギリシア思想なんかこれっぽっちも大事にしていなかった、ギリシアの知の伝達を担ってきたのはあくまでキリスト教なのであって、イスラムとは関係ない、みたいな扇動的な語りの度合いが高まる。なるほど、これではイデオロギー的に偏っていると言われても仕方ないかもね。先行研究を踏まえての、最適解を出しているようにはちょっと思えない……か。ま、興味のある方はどうぞ。

パストゥローの邦訳新作

最近出たミシェル・パストゥロー『ヨーロッパ中世象徴史』(篠田勝英訳、白水社)を読み始める。とりあえず約三分の一。歴史研究の基本姿勢を説く序章から飛ばしている感じ。イシドルスとか中世の文献に出てくる語源や言葉の解説はかなり独特なもの。民間語源といって割り切れるものではない。パストゥローいわく、「歴史家はそのような「偽の」語源論を決して揶揄してはならない」「中世の象徴体系の研究はつねに語彙の研究から始めなければならない」。例として挙げられているのが、騎士道物語で騎馬試合の勝者への賞品にカワカマスが選ばれるのは、名前ゆえなのであって、精神分析的なアプローチなどとは無縁の産物なのだ、という話など。名前のアプローチがあればそういう誤謬は避けられる、と。そういえば先のクルティーヌにしても、中世を論じる時のアガンベンにしても、言葉の検証から始めている。やはりそれは王道。

それにしてもこの本、パストゥローのこれまでの著作とか研究とかのエッセンスをまとめ上げたような感じで、総覧できる。ある意味でお買い得かも(笑)。豚の裁判、ライオンの象徴史、イノシシ狩り、マチエールとしての木、百合形文様の概論、色彩論などなど。とりわけ第4章の「木の力」が、個人的には一種の物質論・配置(dispositio)論という感じで興味深い。技術史と素材論と象徴的変容との錯綜を垣間見る思いだ。これはもっと深めたものを読みたい。